- 3 - mother

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- 3 - mother

 午後3時、窓から洩れる光は些か黒ずんではいても昼間。  アヤは目覚めた途端に背中の痛みを意識する。毛布にくるまって壁に寄りかかっただけの姿勢で彼女は眠り込んでいた。読んでいたはずの紙は自分の右手を中心にして床に散乱している。  書かれたスクリプトコードの合間からは何も見えて来ない、不可解な関数の断片が散らばるだけで、それがどう相互作用しているのかまでは全く理解出来ない。恐らくその関連図を鮮やかにトレース出来るのは誠だけなのだろうが、今の彼にそれを求めてもダメだろう──まだ「死んだ」ままの肉体が機能的なオフィスデスクの隙間から見える。動いてない。「入った」まま。  痛い背中をどうにかすべく体を少し動かしてみる。  頬に当たる、気持ち悪いぬめり方をしている物体が自分の髪の毛だと気づいてげんなりする。こういう時ほど、肉体を捨てる方向に心が動いてしまう瞬間はない──アヤは自分の中に浮かぶ苛々を追い払うように頭を振ると、ずるずる自分の体を引きずってデスクの引き出しを開ける。慢性的に準備してしまっている着替えをピックアップして抱えると、シャワールームにのろのろ向かう。  服を脱ぎ捨てながら鏡の中の自分に目をやる。前時代的でオトコとレンアイしてケッコンするのが幸せという思考回路の母親はきっと嘆くだろう、としか思えないひどい顔だった。  濡れた髪にぐるぐるタオルを巻いたままマシン室へ戻る。誠はまだ死んでる。あと6日。逆に何もかもやる気が失せるのを感じる。そのままドアを出て社内のコインランドリーに衣類を放り込んで戻って来る。まだ死んでる。いつまでも死んでろ、と内心悪態をつく。ついた後で何故か泣きそうになる。──情緒不安定だ、かなり。  デスクで再び鏡に向かう。シャワーの下で洗い流しただけの顔にはなっている。手が重い、と感じながら、もう一式揃いそうになっている携帯用のポーチから乳液やらファウンデーションやら口紅やらを引っ張り出して来る。  こんなこといつまで続けてるつもりなの?と笑っていたサイバースペースに行ってしまった女友達の言葉が甦る。──そんなことは言われなくても判ってる。これが「楽しみ」だった時代もあったけど、今は時間が無さ過ぎて、実質的に何も生み出さない行動は自分でもうんざりするだけだ。レンアイでもしない限り「生産性」ゼロ。  レンアイの「生産性」?  鏡の中のアヤの唇は滑らかなピンクに染まって行く。  ──"mother"に会いに行く時でも、一応このくらいはしようなんて、それは慣習であって全然合理的じゃないわね。チップ化した自分ならそう思うだろうな、と思って空虚に笑いながら、"mother"の部屋に向かった。  薄暗い部屋に入ると深い安楽椅子に座る。手元のコントローラで適当に曲を選ぶと、少し重たいビートが小さく部屋を満たす。深みへ。誘導されるように自分が離れて行く。もう自分は「死んでいる」。  視線のない視点が"mother"を探し当てる。"mother"は穏やかに笑って彼女を出迎える。「最近、来る頻度が増えたみたいね、アリサワ・アヤ」 「そうね……」 「喋りたくない?」 「少しね……」 「大丈夫、ロードして来るわ。ちょっと不安定ね。『鎮痛剤』を試してみる?」 「……ええ」  彼女の神経回路が計算される。不自然な緊張感だけを相殺するプログラム。緩やかに、違和感のないように。"mother"は「癒し」だけに特化されたAIだ。もう計算出来ないものはこの世に何もないんだろうか。ちらっと頭によぎったその言葉までが「消されて」行くのが判る。 「……アヤ、6日前に迷ってももうそれをどうにかすることは殆ど出来ないでしょう……マコトは、それを3年かけて作り上げています、それを6日で巻き戻すことは出来ないでしょう、それを止めることはシステムを止めることに等しいのです」 「わかってる、"mother"、でも、これが動き始めた時に」 「どうなるのかは、動かなければ判らないわ」  "mother"は"止め"に入ってる、とアヤは呟いた。 「"mother"、あなたには見える?」 「あくまでこのままで行く上では、何も不都合なことが起こるとは思えません。私の結論はそうよ、アヤ」 「ほんとうに……」 「ほんとうよ、アヤ、あなたはclubを過信し過ぎてる。ヒトはそんなに弱くはないわ。"意志"を失っている訳ではない、チップは……ちゃんとヒトの脳の形をしているのよ、内部の分岐も、回路を流れる信号の流れも。決して、チップ化する時に劣化を起こすようなことはしてない、アヤ、あなたも判ってるはず」 「そうね」 「アヤ、あなたはもう少し眠るべきなのよ」 「……」  考えてみたらこれもある種のドラッグだ。極限状態から訪れる睡魔の快楽……緊張の中から真っ逆さまに落ちて行く眠りの渦。アヤは意識を失った。
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