- 6 - test run

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- 6 - test run

 テストラン当日。  アヤは始発の列車に乗って会社へ。まだ静まり返っている街をすり抜けてマシン室へ。  机の近辺を少し掃除して、マシンの周りの私物をどうにか片づけて、久々に「現実の」客を迎える準備。  コーヒーポットに落ちる濃いめのコーヒー。  やがて現れた誠も、今までとはちょっと違う小綺麗なスーツ姿で。 「おはよう」  笑う顔は初めて会った時と同じ──ただ単に夢を見ていた青年だった頃の。  あの中にいる時とはまるで別人だ。  最後の打ち合わせを数時間で。何処をどう見せるのかという脚本を確認する。《S.T.》とも。穏やかで優しげな笑顔の《S.T.》は、決して誠の前では「あの微笑」を見せない。あの……歪んだような、何かを含んだような微笑。  昼食の時間になってもお腹がすいたという感覚はなし。アヤは冷めたコーヒーで唇を濡らしながら、《S.T.》が選ぶ穏やかなハウス・ミュージックを聴くともなしに聞いている。漫然としているうちに、ドアにノックの音がした。  企画段階で1度会っている。会うのは2度目だがもう何度もメールを交わしているので話は早い。食事から戻って来る誠を待って、ログインして貰う。  平和な時が流れて、まるでそれまでアヤが感じていた漠然とした不安なんて一体、何だったんだろうと思えるくらい平和で。揺らぎの中に現れては消えるほんの少しの違法行為ですら、それすら「クライアント」にとっては面白いものと映ってくれたようだった。それはそう。このクラブを出れば、風が吹けば、消えてしまうドラッグ、キツ過ぎるアルコール。全てはパーツ。  凄く満足してくれたらしい。アヤも異存はなし。  ゴーサインが出た。 「……『意志体』サイドの認知/フィードバックメカニズム自体はet-ai-laboの標準仕様に添ったものとして作り込んでいます。その辺りについては特に当初の仕様から変わっているところはありません。基本的なシステムについては殆どメンテナンスフリーで行けると思います。管理上特に気をつけて欲しいことと言えば、キャパシティに関してはかなりの自由度を持たせることに成功しているので、その調整です。単にクラブ・カルチャーの1つの形を見せるだけでなく……もし生き残っているなら、ですが、……様々なパフォーマーたちにとって場を提供出来る、と思います。管理者の方が柔軟に対処して戴ければ、の話ですが」ちらりと誠の向いた先にいた若い青年は、 「柔軟ですよ、多分」幼い、15歳くらいにしか見えない。「岡田です。僕がその管理者とやらの責を預かることになります」 「──ああ」小さな絶句と瞬き、それから、「想定しているレンジは、20人くらいから、2,000人くらいまで。もちろん、いくつかのサブフロアに区切ることも出来ます。その場合は、与えられたパラメータによって、それぞれのフロア同士の"浸透圧"は変えられます。つまり──」 「完全に独立した複数の店としての営業も可能、あるいはビザール的にパフォーマンスのカタログのようにそれぞれの場を渡り歩くような形にも出来る……」 「そういうことです」  誠の顔はもう最後の方は岡田というこの青年の方を向いたまま。  黒というよりは深い闇の紺色の髪、細く腰のなさそうな前髪の下の切れ長の目。その目の奥から"岡田"は真っ直ぐに誠を見据えている。  アヤの心の中に何かの面影が走った。会ったことがあるような気がする。 「……失礼ですけど、岡田さん」 「16です」  唇が歪んだように見えた。 「……お詳しいんですね」 「いえ……」初めて目線がそれる。「リバースを、受けてます。父の。父はバウンスというクラブのオーナーでした。ほんものの田口さんなら父を知っていたはずです。恐らくは僕のことも」  クラブの中の《S.T.》は僅かに首を傾ける。  本物の《S.T.》──。ここにいる彼は誠の産物。誠の知らない《S.T.》は、この《S.T.》にも判らない。 「望んだことではなかったのですが──」 「リバース、ですか」 「ええ。しかし、今の僕が持てるものはこれしかなかったので」  青年は、あくまで涼しげに、笑いとは呼べない笑顔を作る。 「cyber onlineでこの話を見つけた時に僕は父にコンタクトを取りました。そして応募しました。父の『意志』は随分気に入っている感じです。僕は、現実が手を出さなければならない時だけ、手を出す程度になるでしょう。後は田口さんと──場を求める人たちのために調整するだけです」 「素晴らしいね……」誠のため息。「幸せ過ぎて怖いくらいだ」 「来たことあるでしょ」アヤの記憶が突然戻る。「テストラン前に」 「ええ。年が年なので断られましたけれども」 「あの時は……」 「判ってます。父のデータによる『予習』はいい線行ってたみたいなので、よかった」  夕日を見たのは何ヶ月ぶりだろう。こんなに賑やかな街を歩くのは何ヶ月ぶりだろう。誠もかなり穏やかな表情で、このところアヤを不安がらせる元だった恍惚はもう見えない。  締め切り前は誰だって異様な集中力になるものだ。ましてや……ある意味、精神依存のドラッグを作っているようなものだったのだから、誠もアヤも精神状態が普通でなくなるのは、こうして落ち着いて振り返れば充分ありえる話だ。  焦ることはなかったのかも知れない。 「ゴハン……食べてく?どっかで。打ち上げ、ってことで」 「いいね」  穏やかな微笑。その後ろで、もう1つの微笑。 「あの、ご一緒してもいいですか……」  涼しげな青年。シルクデニムの淡いシャツの中に孕む風と共に。 「他の人たちがいないところで、ちょっと話したいことがあって」  ワークステーションの前にいた時に見せた怜悧さは、この時代、このくらいの青年たちが生きていくために、どうしても身についてしまう仮面なのかも知れない。『大人』と対等に渡り合うことを余儀なくされた子供たちの、自己防衛の手段なのかも知れない。  アヤの目の前で、甘辛いチキンを威勢よく食べている分には、普通の高校生に見える。  何げない話題として家族や学校のことを持ち出すのは何となく憚られる。リバースを受ける──父親の記憶の一部を引き継ぐことを「望んでいなかった」と言っていたから。あの言葉だけでも、彼とその父親の間に何かの確執があるだろうことは想像出来た。  話題に困ってという訳でもないが、アヤは誠に話を振ることにする。 「……『リバース』、って、ずっと生まれ変わりのrebirthだと思ってたけど、逆方向のreverseだったんだよね」 「あはは……だって生まれ変わったりしないじゃない」目線を彼に向けるがそれは一瞬。「まあこれも元はet-aiの俗語、らしいんだけど。彼らが目指していたのはサイバースペースに入ることであって、そこから脳に情報を戻すことは『逆方向』ってわけ」 「でも今となってはリバースない限りやれないことの方が多くなっちゃったよね」 「まあ考えものだけどね。一時記憶と長期記憶の混乱とか、まだまだあるみたいだから」  サフラン色のピラフが誠の前に。小皿に取り分けながら、岡田がようやく声を発する。 「誠さん、ですよね、主に担当されたのは」 「ええ」ダークグリーンのネクタイを少し緩める。 「この仕事終わったら別の仕事で忙しくなります?」 「……いや、そんなには忙しくないけど、なんで」 「……実はその」湯気を立てるタイ米の粒に喋っているかのように、「僕は今回のコレが『新卒』で……」  誠の瞬き。ネクタイに指を突っ込んだまま一時停止。 「初仕事」 「……ええ。家の都合で----あまり裕福じゃないので──学校、行きたかったんですけど、最後までそうは言えなかった。だから自分で仕事、探し出そうとして。でも、学歴も何の資格もなくって、正直、何をすればいいんだろうって卒業前に悩んでたら、父のことを知って──」 「知って?」  小さな静寂。 「父はいないもの、でした。私生児、というやつです」  声に暗さはない。 「──ですが、母は反対しました。教えてはくれないですが、母は母なりに父と確執を持っているみたいで……。多分、クラブという場に関わってしまったことを知ったら悲しむだろうな、とは思います」 「お父さん本人はまだご健在なの」 「判りません。記憶の一部、クラブを経営していた頃の記憶は、何故かバンクに預けられていて、ある人からのメールで、そのことを知りました」 「その人って?」 「父の大ファンだった、みたいです。DJの頃の。それで、どういう訳か僕が息子だと、その人には判ってたみたいで、何げなくメールを。でも本人があまりに何も知らないんで」と少し声を立てて笑う「色々教えてくれたんです。母には内緒で」  長らくネクタイに突っ込まれていた誠の指先がため息と共に膝に落ちる。グレイの細かいタータンチェックの上で、その爪が2,3度とんとんと鳴った後で、「もしかして、仕事をやることもお母さんに伝えてないとか?」 「いえ。やる、とは伝えてます。銀行とかのオンライン業務の運用に関わってる、とだけ。夜に勤務するコンピュータ管理の仕事といえばそんな感じかなと。それで……」 「『ごまかす』手はずを整えておきたいわけだ……」 「そういうことです」  青年はピラフに戻る。  こういう世界も、まだあるのか。とアヤは奇妙な感覚に襲われる。私生児、母子家庭、高校に通えないほどの貧しさ、というもの。オンラインという環境が、一頃の電気や水道のように身近になったとしても、まだこの国からこういう部分を消すことは出来ないのだろうか。  お金の回り方がちょっとおかしいのかもしれない。この国は。 「僕が考えていたのは──」  フォークを持つ手を離し、思い出すような目を宙に投げて自分の頬を撫でて、 「とにかく連絡先窓口を別の番号、あるいはアドレスにすることです。母はまだそれほどオンラインに馴染んでいるとは言えなくて、使ってはいますが、どうしても何だかんだで電話による連絡をしたがるもので」 「俺のところにってこと?」と誠。 「……ご迷惑でなければ……」 「頼める友達とか、いなかったわけ」 「避けたんです。学校の友人関係者だと、逆に辿られてしまうような気がして」 「"アドレス"の方は」 「それっぽいアカウントを拝借することにしています。$HOMEと.forwardさえあればいいから」 「拝借って」 「端的に言うなら」いたずらっぽく「ハッキング、ということになりますね。銀行って、セキュリティのためという名目で長らく外と切断されて来たところが多いので、メールアカウント程度だと逆に緩いですから。カネの動くメインフレームは頑丈ですけど」  学校には行けなくてもその程度のことは身についてしまう。アヤは心の中で自分に苦笑する。学校に行けないことは彼にとってはマイナスには働かないのかも知れない。古いのは、自分の思考の方だったのかも。 「──やれやれ。俺が中学生の頃はそんなこと習わなかったぜ」 「中学校で習ったわけじゃないですよ」ようやく解き放たれた無邪気な笑顔。「オンラインの友人たちのお蔭です」  凄い世の中になって来たなあ、と他人ごとのように呟いた後、誠はすっと右手を差し出した。「OK、何とか協力するよ」  ──岡田知明、16歳、母親は結婚していない。岡田隆、生きていれば51歳、知明が生まれたのは35歳の時。とは言うものの、彼は知明の存在を知らない、らしい。  知明がバンクから得た情報を元に調べられたのはそんなプロファイル。引継ぎのための資料整理でのんびり仕事をしながら、片手間に構築したデータの人格。  クラブ「バウンス」のオーナーになったのは28歳の時。「クラブカルチャーが死に急ぎ始めた頃」とは誠の弁。 「例えば、どんな辺りが」 「ブレイン・クラッカーのこと知ってる?」 「──ああ……sugarの話なら聞いたことがある……」  サイバースペースで活躍するプログラマであり、"sugar"の名でDJもやっていた男。ある時、コンピュータで音楽を作り始める。やがてその「データ」は、あるトリガーを与えると、聴覚神経から作用する全く新しいタイプのドラッグに変身することが確認される。そのトリガーはあるプログラム。ソースコードのまま何処かに存在していた。  彼はそのトリガーとそのデータがペアで流布することを恐れていたが、彼の意に反してそれは闇ルートで相当流行した。 「なんで嫌がったんだろうね……人によっては、凄い大発明、って喜んで、ばんばん流しちゃいそうな気もするけど」 「彼は理想家だったみたいだから。晩年、東京では全然回さなくなったって話も知ってる?」 「知らない」 「ある地方都市に拠点を置いてた。でもそれも3年くらい。その後は──伝説」  誠はメール到着の音を聞いてマシンへ。 「伝説って何……」 「旅に出た、らしい。行方不明になっちゃったの。で、ある時、彼が地方都市に退く直前までやっていたメーリングリストにぽつりとメールが入った。とっくにメンバーではなくなっているはずのsugarのアドレスから」 「どんな?」 「疲れた、って」肩をすくめてメールを開ける。「──でも、誰かがそのアドレスに返事を出しても、戻って来ちゃうんだって……」 「ふうん……」  アヤもメールを開く。型通りの挨拶メールがcyber onlineの──岡田を雇った側の上司から。それとは別に岡田からの。引継ぎ作業の日程を再確認するメールを書いて、返事を出す。 「そのブレイン・クラッカーは今も出回ってるの?」 「sugarのごく親しい仲間で誰かが裏切ってれば流れてるかもね……トリガーの方は。データの方は、難しいらしいよ。1度、sugar自身が自己嫌悪に陥って無毒化したヤツをバラまいたらしいから」 「残ってたら凄いね」 「どうかな……」誠は椅子の上に乗ったままでくるりとアヤの方に向き直り、「僕らは、作れる立場にあるんだから、ね……ジャックイン、そしてリバース。その間のパケットを、いじるだけでいいんだから」  意味ありげな唇の動きは、ほんの少しの恐怖をアヤに与える。  それは、形を変えた予感、だったのかも知れない。  テストランから1ケ月、付加料金なしで公開されたcyber online上の「クラブ」は瞬く間に噂が噂を呼んだ。岡田が口にしたビザールという言葉が似合う──細分化された音楽とパフォーマンスの万華鏡。位置空間概念を超えているサイバースペースであるが故に、閉鎖と解放の間を自由に行き来出来る。静と動の間も。各自のやりたいことをやりたいように。その場の毎晩の享楽は、アヤにまたあの不安感を呼び起こさせた。  精神依存のドラッグ。  今のクラブの現状は確かにそれに近い。「はまって」いる人々は常時その仮想空間の中を飛び巡っている。まだ完全にオンラインされてしまっている意志体たちはそれでもいい、問題はまだ肉体を抱え、ここの外では昔ながらの生活している人たちの方。現実の生活を壊してまでここに来るべきではない、それはcyber onlineは問題にしようとはしない──それはそうだ、このまま有料化に移行すれば金づるになることは間違いないのだから──。  ただ、アヤにはもう手出しは出来ない。岡田に管理を引き継いでからは、トラブル対処に駆り出される以外はもう入ることすらない。  もちろん、客として来ることは出来るが。  1ケ月の無料期間の間に、誠自身の恍惚で生成されたフロアと音響については苦情は1つも起こらなかった。主に環境整備を中心にいくつかの要望をクリアし、ついにテストランは終了した。  クラブは、「バウンス」と名づけられ、cyber onlineのサービスの1つとして、華々しいデビューを飾った。
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