- 7 - 疑惑

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- 7 - 疑惑

 1ケ月の間、自宅で、「やっつけ仕事」的なホームページの作成やいくつかの原稿依頼をこなしながらcyber onlineとは待機で契約を続ける。何かあった場合にはメールや、時には電話やファックスが来る。  アヤは15時になると1度外の空気を吸いに出る。公園を散歩し、前世紀末から続いて来た母親たちの奇妙な力関係を眺める。そんな、一頃に比べるとのんびりした日々を暮らす間に、小百合から連絡が来た。彼女の方も、「1日10時間も"入る"ような仕事」が一区切りついたと言う。2人は、とある休日、オープンカフェの一角で端末を弄びながら話していた。  アヤも小百合には1度会いたかった──《S.T.》の話を聞くために。小百合は(本物の)《S.T.》に対して悪いイメージは持っていないらしかったので。  小百合はためらいもなくクラブにログインする。アヤはケーキを食べるからという妙な理由で横で見物しているだけ。 「これは凄いね!不思議……正直、今までet-……なんだっけ」 「et-ai、エモーショナルチップai研究所」 「そうそう、そのet-ai絡みの話って怖がってたようなとこがあるのよね。まだ研究段階の時、いくら任意で被験者になったとはいえ、仮想記憶と現実の記憶が脳のシナプスレベルで区別付かなくて発狂するとかいう話、あったじゃない」 「あったね。実際には発狂してもする前まで戻せるんだけど……」 「そりゃそうなんだけど、純粋に怖いよ。そういう話を聞くと」  アヤから言わせれば、どんな意識障害でも元に戻せてしまう今の技術の方がよほど怖い。狂う、というのはそれはそれで、人間が編み出した「適応手段」なのだから。  カフェの細い回線でようやくクラブに接続される。木のドア。《S.T.》の名前のロゴが回っている。小百合はIDとパスワードを入力。空間構築のためにまた暫くの待ち時間。 「で、怖かったの?」 「ううん、逆。世の中進歩したんだなあって。ここまで普通でいられるものなのかなって。致命的なバグってもう殆ど潰れてるの?」 「うんまあ、et-aiが出してるライブラリはもう殆ど固まってる。今第2世代に動くかどうするかって話をしてるところみたい。このクラブ自体はわかんないよ。誠が想定してるシチュエイションは全部潰したつもりなんだけど」  午後の柔らかな時間帯は少しビートを落としている。時折、さあっと風が吹くように流れて来る澄み切った高音。小百合が目を細めて、「綺麗、もうこの辺の音は遺産になっちゃったんだね」と呟く。「──デトロイト……って言葉も、アヤには通じないんだよね……」  高く浮遊する、柔らかく広い高音。 「田口さん──《S.T.》は、」小百合の目はクラブのあちこちを探りながら好奇心で光っている。「私のことを凄く気にしてくれてた、という印象が最初にあって。でも、それは後になってみると、誰にでもそうなんだということが判るわけだけどね」レアチーズケーキをつついていたアヤに向き直り、「優しい人。表面はね」 「表面」 「うん──時々、そこはかとなく見えない時があった。『いなくなる』感じ、と当時は思った。今の言い方にすると」ちょっと間を置いて、「ジャックインしちゃって出て来ない感じ」 「ジャックイン?《S.T.》が?」 「うん……」  小百合の姿を認めたのか《S.T.》がにっこりと笑いかけて来る。レコードが変わったと同時にブースから下りて来ると、親しげに近づいて来る。 「久し振り!」 「こないだも来たじゃない?」小百合の言葉に合わせたように端末の視界が動く。少しカクカクするのは回線が遅いせい。 「そうだっけ……随分色んな人が出入りしているせいか、長く感じちゃうな……」肩をすくめる。「ファイ、見なかった?」  ファイ……サービス開始後に《S.T.》と一緒にDJを勤めることになった男のあだ名。中国人と日本人が1:4のクオーター。 「見てないよ」 「そうかあ……」きょろきょろとフロアを見回すその仕種は、とてもホログラムとは思えない。誠の、情念だ、とアヤはふと思う。 「んじゃまた後で。ファイ来たらちょっと休憩しようと思ってさ」 「うん、そうだね」 「それまでは無理に暴れないように」くすっと笑って、「また転ぶといけないし」 「はああい」  小百合は肩をすくめる。笑顔が、またブースへ。 「小百合ったら、義足で暴れたの??」  レアチーズでむせかけるアヤ。楽しそうに笑いながら小百合は、クラブの中のアバタを小さなスツールに座らせた。ロボットのような義足をあえて剥き出しにして、その筋肉繊維代わりのプラスチックに、ブラックライトに光るチューブのようなものを巻きつけている。真横から見ると"trance"という単語に読めるようになっている──凄い、とアヤは素直に思う。これは芸術だ。ほんものの足には絶対出来ない芸術。 「昔の話。他にお客さんいなかったから、田口さんブースから飛び出して来て起こしてくれて……あの時の田口さん、もう、暗闇でも判るくらい顔が真っ青だったなあ……思い出すとおっかしぃ……」現実の小百合はマウスから手を離してお腹を抱えている。 「おっかしぃぃって、私だとしても真っ青になるって……は、外れたりしないものなの??」 「立って暴れてみようと思えるくらい、自然だったんだよ、あれは……」  ちょっと遠くを見る。アヤの心に小さい後悔がトゲのように。しかし。 「……他にお客さんいなかった……って言った?今」 「言ったけど」 「ログアウトして。オフで話したいことある」  そう。他に客がいなかった時の出来事?それを……この《S.T.》が知っている?  誠の産物であるはずのホログラムが、《S.T.》しか見ていないことを、  知っている──だって? 「気にし過ぎだよ」アールグレイの香りと共に小百合は笑う。「そんなの、簡単でしょ。田口さんが誠さんに、何かの時に話したんだよきっと。もお、内緒にするって約束したのに、田口さんったら……」  もうログアウトして、くるくる回るドアのロゴの前でアヤは割り切れない顔で小百合を見上げていた。 「アヤったらいつまでそんな顔してるの?」 「だあって……」 「……そうか、あの田口さん、ホンモノじゃなかったんだ」 「……うん……」  鈍く光るディスプレイに視線を投げて、紅茶のカップを手にして、一瞬目を閉じて、肩が動く。ゆっくりと深い深呼吸。 「アヤ」 「何」 「何を疑ってるの?」 「──え」  ディスプレイに向けられたまま視点は動かない。小百合の横顔からは何の表情も浮かんで来ない。 「もしかして死んでないって思ってる? 田口さんが」 「……」 「もしかしてこれがホンモノかも知れないって思ってる?」 「……」 「ねえ」  振り返る。アヤの目の奥を覗き込むようにして。 「ホンモノって何なの。オンラインで人格が生きててホンモノって言い方、やっぱりするの。アヤは、もし──その──これが」ドアを指で弾き「誠さんの産物じゃないってなったら、それは、ホンモノなの。アヤにとっては、ホンモノってこと」 「小百合」  紅茶のカップがソーサーに戻る。その両手が、不意に顔を覆う。アヤの手からフォークが滑り落ちる。 「──ごめん──」声が涙に消えそうになる。「もう、転んでも起こして貰えないんだなって思ったら、……」喉が引きつる。「私にとっては、いないのと同じだから……」  決してそれ以上の声は立てず、小百合は、再び顔を見せた時には泣いた跡を消してしまっていた。  また深呼吸、それが引っかかるのが唯一の痕跡。 「あ、あたし……」何を言えばいいんだろう。 「ごめん、感情的になっちゃった、久々に。というか、」少し笑顔になる。「感情的にさせる何かがある、人なんだ、田口さんはね」 「好きだったとか言わないよね……」 「言わない。恋愛じゃないもの。クラブのDJと客の間に成立する関係は、恋愛みたいな尺度じゃ計れない」  言い切った後、不思議なプライドのような光を目の中に見せる。アヤは少し怖くなる。教祖と信者。精神依存。絶対的な。 「それに、彼女いたから。田口さんには」 「へえ、初耳」 「私も初耳」 「──はあ?」 「……見えた、ような気がしたの」  小百合がネットでサーチャーとしての仕事をしているのには歴然とした理由が存在していて、それは、当然、ネットワーク内で情報を探すのが上手なためだ。しかし、高度に情報化された人間達は、ただネットを操るのが上手いという以上に、情報が向こうから飛び込んで来るタイプの亜種を産んでしまっていた。小百合も、そんな類の新種の1人だった。  元から、足が悪い彼女は、生計を立てるためにはコンピュータの道しかないと決意していて、小さい頃からずっとネットワークに接して生きて来た。そのうちに、彼女の中にあるその能力が目覚めてしまったらしく、自然、彼女はサーチャーとして、世界中の情報の中を泳ぎ回ることで生活の糧を得ることになった。  ただ、その「能力」はいつもプラスに働くわけではない。時に、不必要な関連情報が向こうから飛んで来てしまうことも、ある── 「見えたって……」 「──うん、女性……多分、田口さんとは、特別な関係だったと思う。今じゃないよ。鍵貰って入ってるうちに断片が色々と飛び込んで来て」 「──ねえ小百合」  小百合はすっと手を上げて、アヤの口元で止めるような仕種をする。 「私は信じて疑ってなかったのよ。これが、『本物の』田口さんだって」  アヤの息が止まる。心臓の鼓動が速くなる。 「──ねえ、私に……やらせてくれないかな」 「何を」 「仕事。見えたあの『道』の先にあるものが見てみたいの」
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