- 8 - メールボックス

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- 8 - メールボックス

 マンションの一室、開けっ放しのドア、気だるそうにパイプ椅子に座っている店長を一瞥して、マキは壁にウロコのようにびっしりと貼られたアナログレコードの列を眺める。細長い部屋の中央に仕切るように置かれたCD棚は雑然とし過ぎて、常連でなければ何処に何があるのか全く理解出来ないのは相変わらず。その一番奥、CDの代わりに、ごちゃごちゃと詰め込まれたフライヤー。引き出して、ちらちら眺める。  大抵はレコードやCDのリリースちらし、それと、最近あちこちに出来つつあるらしいオンラインの「クラブ」の宣伝。マキはその中からcyber onlineのバウンスについてのものだけを抜き出して手にする。そして部屋を出ようとする。 「あのさあ」椅子に座ったままの男。「オレはネットの世界ってよくわかんないんだけど、それって、最近、流行ってるの?」 「──ええ、まあ」 「いっつもそれ関連だけ持ってくよね。ネット詳しい?」 「──ええ、まあ」 「そいつってさあ」フライヤーを指さし、「あいつなの?5年くらい前にボックスで死んだっていう」 「──の『再現』だって聴いてます」 「ふーん」  男は、壁から今にも落ちそうな棚の上から1本のカセットを取り出す。 「こないだ偶然棚の裏から出て来たんだ。遺族がいれば返してやりたいなあって実はずっと思ってたんだけど、あんた、知らない?」 「──遺族って呼べる人はいないと思います。家族、いないみたいだったから」 「じゃあ」男はにぃっと黄色い歯を見せて笑う。「あんたに返す。家族がいないってことを知ってるだけで充分だ」  骨ばった手が、マキの手にカセットテープを手渡す。bouncing bounce、という文字列は細かい傷の中に埋もれていた。  マキがそれを聴いたのは初めてだった。マキにとってDJとしての《S.T.》は見知らぬ他人に近いのだ。人付き合いの下手な、何かに取り憑かれたような、閉ざされた目を持つ青年、田口翔太としてしか、会ったことがないのだから。  ヘッドフォンから流れたリズムと穏やかな音場。緩やかに、深く、心の奥へと奥へと誘なうような低音。  マキが思い出すのは、そっけないコンソールの文字と、決して合わせたことのない視線と、そして。  笑顔。夢を見るような。  空調管理されたオフィスは季節が巡っても空気が変わることがない。出勤したマキは、動いているサーバマシンにログインして、メールをチェックすることから始まる。「You are SUPER USER」とご丁寧にメッセージを投げてくれるようにしているのは、今は長期出張中の前任者だ。神経質で、とマキは思い出し笑いをする。まあだから管理者向きなんだけどね。何せここの研究所はハッキングが趣味みたいな連中ばっかりだし。  システムログを流す。この間から気になっているアタックの痕跡。不安の影は消えない。でも、──  マキはログファイルの一点を見つめたまま手を止める。アタックされているアカウントは田口翔太のそれだ。  もう「死んだ」はずの人間のもの。  机に戻って急な仕事がないことを確認すると、マキはサーバマシンに戻る。ここ数日、調べれば調べるほど強まっている確信。そして、このアカウントを消せと言われながら消せないでいる理由。  このハッカーは本人かも知れないということ。もしくは、それに近い者ではないかということ。  マキは、密かに走らせておいた追跡プログラムの調査結果を開く。そして。  目の前に出た文字列に、彼女の中の時間が動く。  夕方、サーバを使用している全員をマシンから追い出してメンテナンス作業をするのが週末の習慣になっている。マキはいつものように、テンポラリを掃除してバックアップを取る。  マキは画面に流れる文字を見ながら、横で雑談している新人に話を振る。「──ねえ」 「何ですかぁ姉御」 「姉御はよしなさいって。──これ、行ったことある?」  cyber onlineのバウンスのもの。1人の男の子が目を真ん丸にしてマキを見上げる。 「姉御がクラブに興味あるとは思わなかったなあ」 「あー……うーん、そういうんじゃないんだけど、ちょっとね」 「何処で手に入れたんですか、これ」 「Fake、って、小さいCD屋……」 「げえ」眉根に皺が寄る。「姉御って、実は通なんっすね……」  そんなんじゃないけど、と言いかけるが、その青年の眉根が徐々に奇妙な尊敬を漂わせるのを意識する。 「いや、実はね、」マキが指した名前に、ますます青年は驚いている。 「知り合いなんですか?」 「……かも知れない」 「凄い人ですよ。オレも学生の時はよく聴いてたし。幅広いし。でも今となってはもう伝説の人だし、あのクラブで始めたって聞いた時はすっごい喜んじゃったクチなんですよお」 「ふうん……」  伝説の人。そっちの関係者はみんなそう言う。あのオタク青年のことを。同僚達に呼ばれて行った青年を送り出すと、マキは自分の鞄から小さいマシンを取り出して、あの日から何度も読み直したテキストをまた開く。  メールボックスのフォルダ。もう届くことのない『彼』専用のいれもの。  ※  ──たぶん、あたしのこと、実在しないと思ってるよね。というより、きっと、実在しない方があなたは受け入れてくれるんだよね。  廊下で会えば視線を向けるぐらいはしてくれてた。深い闇の中に沈んで、何かを見ても意志を持たなかった瞳が、確かにこっちに目を向けてた。でも。  ──実在しちゃいけないんだ、あたしは、きっと、彼にとって──  同じフロアにいる。同じ会社にいる。彼の行動を(少なくとも会社の中の行動は)ほとんど把握出来る立場の人間。  タイムカード。  給与明細。  あちこちで必要になるIDカードのログを取り出せば、どの廊下を歩いて、どの部屋に入ったのかも全て判る。  そう、社員食堂で食べたものでさえ。  独身寮の休日の行動さえも。  ──ぜんぶわかってる──  ──会社から飛び出した先で、暗躍する彼の別の顔を除いては。  彼がPathをごまかすことを忘れたりしなければ、今でも誰だか判らなかった。lucifer@et-ai.lab、という単なるメールアドレスの存在でしかなかった。  luciferが何故マキとメール交換をするようになったのかは、マキには全く理解出来なかった。少なくともluciferは誰かとコミュニケイションを取ろうとしているようには見えなかったから。ただ、きっと何処かに吐き出してしまいたかった、そんな風にマキには見えた。  何か大変な研究に関わっている人であるらしいことや、その研究が彼の中で何かのジレンマを生み出していたらしいことなどは判っていた。というより、向こうが勝手に喋って──いや、書いていた。マキには判るはずのない世界のこと。いや、多分、だからこそマキに向けられた言葉の数々。  その一通のルートがいつもと違うことに気づいた。それが彼にとっての不運。マキは、残念ながらそれに意味を見出せない程度の人間ではなかった。知りたいと願い続けたluciferの正体、辿り着いた先に、彼がいた。  同じフロアに。  社員食堂の隣の席に。  ──全てを手の中に出来る、そのコンピュータの中に。  彼の死の直前にマキに届いたメール。マキの手の中のコンピュータから決して消えることのない1つのテキスト。 『ぼくは何かを見つけたと思う。それがどう実装されるのかなんて今は想像もつかないけど。たぶんぼくは見つけたと思う。すべてを手にするための鍵を。だからぼくは行きます。もうメールは書かない。いや書けないと思う。  それでもあなたは信じてくれますよね。ぼくの存在を。今までそうしてくれたように。こんなことを言えるのはあなただけです。  あなたのアドレスが、その時までどうか無事生き延びてくれますように。』  死の日、会社で、彼は笑っていた。廊下をひとり歩く彼は、夢見る少年の瞳で笑顔を見せていた。その笑顔の意味が判るのは、実在しないマキだけだった。アドレスだけの存在の。  DJをする日は夕陽の中、まだ暗くもならないうちに会社を去る。オレンジの西日の中の笑顔、すれ違うマキは何かを予感していた。その予感が、死だったことに気づいたのは、翌日のことだったけれど。  ※  マキはのんびりと仕事をしながらログを流すウインドウに目を向ける。総務という仕事は時節でなければ特に忙しい訳でもない。波がある。給料の支払いも終わり、ちょうど今は凪いだ時期だ。  例の後輩──矢島から時々「バウンス」の話題を振られるようになって、それでもただ曖昧にだけ答えていた。そのうち、彼にも「実はわかってはいない」ことはバレてしまったらしい。それでも、彼にとっては、《S.T.》と個人的な知り合いであるというだけで充分尊敬の対象になるらしかった。  《S.T.》と個人的な知り合い、という定義には多少の違和感がある。マキが知り合いだったのはlucifer@et-ai.labというメールアドレスの存在だけだから。ただ、そのアドレスはむやみに誰かに話していいものとは思えないから、まだ心の中にしまったままだけれど。  当時は、暗躍している程度に過ぎなかったet-aiという組織──いや、組織、と呼んでいいのかどうかもマキにはよく判らない。ニュース的名解説を言えば、一部のコンピュータ・マニアたちの羨望の的だったハッカー集団。でも、今となってはそれだけでは済まされない。  最初は猫の脳を、そしてついには人間の脳をコンピュータでエミュレートすることに成功した集団。感情まで含めて全て。  先天的な脳の欠陥による病気を、受精卵診断で見つけ出し、病気の卵子は捨てる──いわゆる「出生前診断」がマスコミに叩かれていた影で、彼らは計算機の中で脳に流れるシナプスを作り変えることで病気を「治療」してしまった。だけど、et-aiが目指していたのは医者になることではなく、それすらも「研究」の一過程に過ぎなかったようだ。  「キレる子供」を落ち着かせること。原因不明の自律神経失調症を治すこと。脳が電気信号の流れであればそれを加工すれば変化があるはず、というエキセントリックな思想は、最初は「暗躍」の域を出ないままネットニュースに流れ、やがて表のニュースにも登場するようになるが、彼らの実体をつかんでいる人は誰もいなかった。と言うより、彼らは「実体」と言うべき物理的な何かを持っていなかったのだ。  何処かに事務局を構えているわけでもなければ、Webページを持つこともない。もちろん紙媒体で何かの連絡手段を持っているわけでもない。唯一、「組織」的なところと言えば、メーリングリストを持っていることくらいだろうが、実際はet-ai自体がもっと小さな下部組織に分割されていて、et-ai全体を統括する何かは最初から、そして今も、存在しないと言われている。  et-ai.labというドメインを取った人物は特定されているが、その後の調査で彼はダミイであることが確認されている。彼自身は、コンピュータの世界には、仕事で最低限使う以上は関わりたくないというタイプで、et-aiのことも全く知らなかったという。もちろん、それが嘘であるという可能性は否定出来ないが。  マキの会社──インターフェイステクノロジー社には、et-aiほどではなくても、人間の感覚とコンピュータの関わりを研究する部門が存在した。IT研究部第1課という無機質な呼ばれ方をしていたそこに集められた頭脳集団は、「辛うじて社会生活を送ることが出来るオタク」という表現がぴったり来るようなちょっと異様な部署だった。《S.T.》──田口翔太はそこのメンバーの一人だった。IT研究部第1課のメンバーはコンピュータには強い連中ばかりだった。だから、田口翔太がet-aiの一員だったのかどうかはマキにも確証がない。単にメールアドレスをハックしていただけかも知れないからだ。  ただ、luciferが話していた自分の研究内容は何処となくet-aiを匂わせる雰囲気があったことは確かで──。  ログのアタックの形跡がだんだんと巧妙に隠されるようになって来ていた。これも、このハッカーが「生きている」ことを匂わせる。そして、単なるハッカーならこうまで同じアドレスを踏み台にし続けるのも不自然だ。「管理者」たるマキには行動を全て読まれていることもひょっとしたら承知かも知れない。そう考えていると。  本人、あるいはそれに近い誰かが、あえてこのアドレスに固執している。そう考える方が納得が行くのだ。  ──誰かが後ろから近づいて来た気配を感じて、マキはそのウインドウをすっと閉じる。直後、矢島の声が頭上から落ちて来る。「先輩」 「──ん?」 「実は、オレ、『鍵』手に入れたんですよ、バウンスの。最近cyber onlineが入会制限してたんでだいぶ待たされたんですけどね」 「ふうん」 「行ってみません?知り合いなんですよねえ、《S.T.》の。紹介して下さいよお、純粋なファンですから、あくまで。握手させてくれるくらいでいいですからあ」  そっちが目的か。ちょっと苦笑する。だとしても、マキの「顔」を田口が覚えているかどうかはちょっと謎ではある。書類届けたりして何度か顔は合わせてはいるけれど。 「向こうが覚えているかどうかはわかんないよ。昔の話だし」 「でもいいですよ。なかなか、周りで一緒に行ってくれそうなやついないってのもあるし」 「へえ」  過去の遺物になる日が来たのか、クラブという場所が。それにしてもあまりに早い死のような気もする。《S.T.》が「死んで」からたかだか5年くらいしか経っていないのに。 「まあ、いいか、たまには」 「そうですよお」
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