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誰しもが、いくつもの顔を持っている。
それは当たり前のことだ。
私ももちろんそうだし、だからきっとあの人もそうなんだろう。
だからそれ自体を責めるつもりはない。
「ないんだけどね」
「そう言いながらむっちゃ気にしてるじゃん」
バーカウンターでため息をつきながら私が話していると、隣に座って私の話を聞いていた仲間が茶化してきた。一仕事終えた帰路の途中で立ち寄った店で、私は仲間に思わず夫の愚痴をこぼしていた。
最近夫との仲がいまいちで、今朝もまた口論をしてきたばかりだった。
そのせいなのかどうかは分からないが、仲間たちとの一仕事も今日の出来はいまいちだった。
「最近だと口喧嘩してばっかり。あんなに冷たい人だとは思わなかった。絶対に手は出してこないけどさ」
「そりゃそうでしょうよ」
それは、そういう取り決めになっている。
ただ思うのは、手が出せないから逆にたちが悪いのかもしれない。
その分、言葉のナイフの鋭さだけが研ぎ澄まされていってしまう。
もう、潮時なのかもしれない。
私は仲間と別れたあと、一人家路につきながら、彼と出会ったときのことを思い出していた。
初めてこの世界に入ってきたときは、興味本位で気軽に足を踏み入れただけだったから、本当に右も左も分からなかった。
そんなときに出会ったのが彼だった。
やることなすこと不慣れでトロい私に対して怒ることなく優しくあれこれ教えてくれた。
この世界での生き抜き方は、ほとんど彼から教わったようなものだ。
そんな私が彼のことを好きになるのは、当然のなりゆきだった。
今にして思えば、それは雛鳥が初めて見た物を親だと思う刷り込みに近いものだったのかもしれない。
プロポーズも私から。
一緒に住む場所を決めたのも私だった。
あらためて考えてみると、その頃からすでに彼は私に対して興味を失っていたのかもしれない。
彼が好きなのは、あくまで出来が悪くて、トロい私。
彼がいなければ何にも出来ない私。
私の面倒を見ることで、彼の保護欲、さらに言えば優越感を満たしていただけなのかもしれない。
だから成長して彼の助けが必要なくなってしまった私は、彼に取ってみればもうすでに愛情を注ぐ対象ではなくなってしまったのかもしれない。
家にたどり着き、彼が横になっているベッドの様子をうかがう。
「ねえ、まだ怒ってるの?」
彼にそっと話しかけてみるが、反応はまったくない。
機嫌が悪いときは反応が鈍いときもあるけど、さすがにこれはおかしいんじゃないかと思って、私は彼にそっと触れてみる。
浮かび上がったのは『このアバターはアカウントの凍結によりロックされています』という、運営からのメッセージだった。
え?
私は彼のアバターに触れて経由して彼が使っているアカウントを確認する。それは私のまったく知らないアカウントだった。まだ他にも、私の知らないアカウントがあったのか。
私はアカウントの会話ログを追いかけてみる。
……いや、これは、凍結されて当然。
そこは見ただけで気分が悪くなるような誹謗中傷の吹きだまりとなっていた。
彼が何を思ってこのアバターとアカウントを紐付けたのかは分からないが、私にとっては彼との縁を切る決断をさせるには十分な内容だった。
しょせん彼とは、ネットワークゲーム上での「夫婦」でしかない。
最後まで「冷たい」人だったな。
私はそう思いながら、ゲーム専用に作った自分のアカウントを削除した。
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