お母さん―地獄の母の日

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 母の日が来ると、子供たちは学校で教わった通りに母親に赤いカーネーションをプレゼントする。学校で教わった通りに、『ありがとう』と感謝の気持ちを込めて。  でも、中にはカーネーションを母に捧げながら、心の中で思わず別の言葉を叫んでいる子もいる。『怒らないで』『ぶたないで』『無視しないで』。中には『殺さないで』と泣き叫んでいる子もいる。  望月遠子(もちづきとおこ)が小学校三年生の時の母の日。二つ違いの妹はようやく小学校に入ったばかりだった。妹は学校で、母の日に母親にプレゼントするためにカーネーションの絵を描いた。  遠子は、手先がわりと器用だったので、割り箸に緑色のテープを巻き付け、手芸用モールで葉を付けた。箸の先に赤い薄紙を花びらのように何枚も重ねて、カーネーションの造花を作った。  我ながら本物の花のように見える出来栄えだった。母親に、『上手にできたね』とほめてもらえると期待して渡した。ところが、母親の反応は意外なものだった。 「みさちゃんは、一年生の割には絵が上手だねえ」  と、言ったきり、遠子の作った造花を見ようともしない。 「ねぇ、お母さん、この花、私が自分で作のよ」  もともと、母親に甘えるのは上手くなかった。よくたたかれたので、訳もなくいつも母親が怖かった。母親はチラッと横目で造花を見ると、 「何なの、遠子のは作りもんじゃないの」  と言い放った。  この頃、遠子は何となく母親に気に入られていないという意識はあったが、それは、母親に対する尽くし方が足りない自分のせいだと思っていた。     翌年、遠子はいろいろ考えたあげく、月三百円だったお小遣いを貯めて、花屋さんでカーネーションの花束を作ってもらった。赤いカーネーションを三本と、周りに白いカスミソウを入れてもらい、それは小学生にとっては結構な出費だった。  母の日に赤いカーネーションの花束を差し出すと、妹はワインのコルクの周りに、赤い色紙を張り付けて作ったカーネーションの造花を用意していた。でも、遠子まだきっと母親が自分のプレゼントを喜んでくれると思っていた。 「お母さんはね、お金で買った物より、自分で一生懸命作ってくれた物の方が 嬉しいんだよ」    母親はそう言うと、妹の作った小さな造花を空のコップに挿し、遠子の買ってきたカーネーションの花束を、目の前でゴミ箱に押し込んだ。それでもまだ、遠子は自分が母親に尽くし足りないから、気に入ってもらえなかったんだと思っていた。  遠子の母親は、浅利サキエといった。昭和二十年の敗戦の時、十六歳だった。ポツダム宣言受諾後、四十万人を超える占領アメリカ軍が日本に押し寄せて来て、日本中に散らばって行った。サキエの住んでいた青森にも。  十七歳の時、サキエはジョージという米兵と恋に落ちた。もちろん、彼は本気でサキエと結婚しようと入れ込んでいた。サキエもジョージに勧められて、アメリカ軍が開いたタイプ教室に通い、英語も習って、ようやく訪れた平和の中でジョージとの明るい未来を夢見るようになっていった。   しかし、米兵と付き合う若い女性を見る世間の目は冷たかった。サキエの実兄も含め、周囲からも身持ちが悪い、と非難された。そんな時、ジョージは帰還命令が出て、アメリカに帰ることになった。  占領後の、相当な抵抗を予想して大軍を送りこんだアメリカであったが、日本人はテロも起こさず、ゲリラ戦も無かった。日中戦争から太平洋戦争敗戦まで、八年間も戦争に苦しめられた日本人は、気力も萎え、厭戦気分に満ちていた。その様子を目の当たりにすると、アメリカは占領軍を二十万人に減らしたのであった。  ジョージはサキエをとてもひとりで青森に置いておけない気持ちだったが、 その頃アメリカは、敵国日本からの花嫁を入国させず、サキエもアメリカに彼といっしょに行くことはできなかった。  彼が帰国してしまうと、サキエはひとりで食べていくために仕事を探したが、空襲で両親を亡くしたサキエに、仕事は見つからなかった。だが、ジョージは誠実な人間だった。戦後の食糧難で苦しんでいたサキエのもとへ、何度も食料や衣類が送られてきたのだ。しかし、それがかえって、サキエはまだアメリカ人と付き合っていてふしだらな、という事になり、サキエは次第に孤立していった。 とうとう二十歳の誕生日を待たずに、サキエは東京に出ることにした。米軍のタイピスト養成学校を出ていたし、東京に行けば仕事も見つけやすいだろうと思ったのだ。それに、米兵と付き合っていることで後ろ指を指す人もいないだろう。  東京に引っ越して、渋谷の安アパートに入った。そのうちサキエの上の階の男性が親しげに声をかけてくるようになった。栃木県から上京してきた望月鉄夫だった。故郷を離れて大都会に暮らす男女に、恋愛感情以前に、互いにかばい合って都会の濁流に飲み込まれまいとする連帯感が出てきたとしても不思議では無かった。鉄夫をはそれを恋愛感情と見誤った。  それに、サキエは顔に大きなケロイドがあっても、初めて会う人からは、 「浅利さんは掃き溜めに降りた鶴だね」 と言われるほどの美貌の持ち主だった。しかし、若い女性の人目を引くほどの美しさは、時として自分自身に(やいば)を向けることにもなるのだ。  サキエは、結婚を約束した相手がいるという話をしていた。その相手が米兵で、しかももう帰国しているという話を聞いて、鉄夫はサキエが相手にだまされているのだ、と言い張った。  東京に来てから、ジョージからの荷物がぱったりと来なくなっていた。サキエは半分信じながら、半分は自分がアメリカに行くことなど、やはり無理なのかとも思い始めてもいた。そのころの日本人にとっては、アメリカは平和と豊かさの象徴であり、憧れであった。それからしばらくして、サキエは強引に迫る鉄夫をあらがい切れず受け入れてしまった。  忘れかけていたころに、ジョージからの荷物がサキエのもとに届いた。青森大空襲で焼失した実家に、サキエ宛に送られてきた荷物は、しばらく迷子になっていたのだった。近所に住んでいた実兄にようやく引き取られた後、さすがに妹を哀れに思って転送してくれたのだ。  サキエは、ジョージをまた信じることにした。生まれて初めての妊娠に気が付いたのはちょうどその頃であった。サキエは迷わず中絶した。中絶してアメリカのジョージのもとへ行くつもりだった。  自分に相談もせず妊娠中絶をしたことを知ると、鉄夫は烈火のごとく怒ってサキエをあざができるほど殴打した。男の中には、いったん女性と(ねんご)ろになると、相手を自分の所有物のように扱う者もいる。鉄夫はサキエの決意を無視して関係を迫り続けた。  ほどなく、サキエはまた妊娠した。しかし、ジョージが再びよこした荷物に入っていた手紙を信じて、サキエは二人目の子供も中絶した。 「‟対日講和条約”が発効したら、日本人花嫁はアメリカに入国できるようになる。そしたら必ず迎えに行くから、絶対に待っていてくれ」 日本がアメリカと平和条約を結んだら、戦争花嫁はもう敵国の人間では無くなるから、晴れてアメリカに渡ってジョージと結婚できるのだ。  1951年にようやくサンフランシスコ講和条約が結ばれた。しかし、その時サキエは三人目を妊娠していた。サキエは慌ててまた中絶しようと医者に駆け込んだ。だがこれ以上中絶を続けるのは危険だといわれ、中絶してくれる他の医者を探し回った。そうするうちにお腹の子はどんどん大きくなり、もう周囲にも妊娠を気付かれるほどになっていた。  そして、妊娠五か月の時に、ついにサキエはアメリカに渡ることを諦めて、鉄夫と婚姻届けを出した。お腹の中の三人目の子供のせいで、アメリカに行く道はもう永久に閉ざされたのであった。そして、皮肉にも翌年の四月、サンフランシスコ講和条約発効の日に、遠子は生まれた。戦争が終わってから、戦争の事は何も知らずに、生まれた。  サキエは、遠子さえいなかったらアメリカへ渡れていたのに、と思うと遠子をかわいいとは思えなかった。何故なら、出産後、鉄夫が酒を飲んではサキエに暴力をふるうようになったからだ。酒の肴が無いだとか、赤ん坊が泣くのがうるさいだとか、理由は何でもよく、自分勝手な要求が多かった。  サキエはわずか三か月で遠子を置いて鉄夫のもとを去った。遠子は鉄夫の実家に預けられたのだった。サキエは、何が何でも、暴力をふるう夫のもとには戻らないつもりだった。遠子には元より何の愛情も無かった。しかし、当時の家庭裁判所の調停は、なるべく離婚を認めず、たとえDVがあっても、女性は養ってもらっているのだからそれぐらいがまんするのが当たり前だ、という風潮がはびこっていた。  サキエは、泣く泣く暴力夫と、愛情を持てない子供のもとに戻ることになった。そして、遠子が二歳半を過ぎたころに美咲(みさき)が生まれた。相変わらず鉄夫の酒癖は悪く、飲んではサキエの態度が気に入らないといって殴った。  鉄夫に暴力を振るわれれば振るわれるほど、サキエは二人の子供を憎むようになった。美咲は生まれてからずっと手元で育てていたので、まだ少しは愛着があったが、生後三か月から一年近く他所へ預けていた遠子は、我が子の様にも思えなかった。  鉄夫に暴力を振るわれて精神的に追いつめられると、遠子をわざときつく叱ったり、トイレのしつけと称して遠子の目の前でに座らせた美咲の顔を、鼻血が出るほど殴ったりした。  サキエは、自分のせいで遠子がおびえた表情を見せると、いい気味だとさえ思った。遠子のせいで、自分はこんなにも不幸な結婚生活を送らなければならなくなったのだから、遠子も苦しめばいいのだと。遠子だけが幸せになるのは許せなかった。  小学校に入ると、幸か不幸か遠子は学校の成績は良かった。母親に厳しくしつけられていたため、行儀もよく、クラスでも先生に気に入られ、目立つ存在だった。さすがにサキエも授業参観や父兄会で遠子の事をほめられると、自尊心をくすぐられて気分が良かった。  初めはテストで満点をとれば少しはほめていたが、やがて満点が当たり前で、それ以外の点数では、いくら良い成績でも許す事ができなくなっていった。まるで、遠子が自分に逆らっているように感じて、また遠子をたたいた。次第に遠子は、失敗は許されない、という無言の圧力におびえて、新しい事に挑戦していくという子供らしさが無くなり、引っ込み思案になっていった。  小学校5年生の時の母の日に、遠子は、今年こそ母親に喜んでもらおう、というより、何とかほめてもらおうと、手縫いのエプロンをプレゼントすることにした。   ちょうど家庭科の授業で、渡された布で何でも好きなものを縫ってよいという事になっていた。透明感のある白い木綿の布は、光沢も有って、ブラウスにもできそうなほど美しい布だった。  遠子はそれを惜しげもなく使ってエプロンを仕上げ、裾のぐるりに小花の刺繍をちりばめた。遠子は手先も器用で、手芸が大好きだったのだ。満を持して母親に内緒で用意した母の日のプレゼントを、取って置いたきれいな包装紙で丁寧に包むと、少しドキドキしながら母親に手渡した。 (これだけ一生懸命に作ったのだから、きっと気に入ってくれるだろう)  と思いながら。でもそれは、これで私を許してほしい、という気持ちと裏腹だった。  母の日、サキエは美咲からカーネーションの花束を受け取ると、家に一つだけある花瓶を出してきて投げ入れた。 「やっぱり、カーネーションは母の日らしくていいわね、みさちゃん」  と言って。それから遠子が渡した紙包みを取り上げると、びりびりと破って中から小花の刺繍の付いた布を取り出した。エプロンのひもを両手で持って、確かめるように目の高さで布を広げると、プレゼントがエプロンだと分かったとたんにサキエの声がした。 「これだけ毎日家事をやらされてるのに、遠子、お前はまだ母さんにをしろっと言うの⁉」  お三どんと言う言葉の意味を、その時遠子はまだよく知らなかった。でも、とにかく、この人はわたしの面倒を見るのがいやなのだと思った。わたしの世話をするという事、つまり、世話の必要な子供の自分が存在すること自体が、お母さんの気に入らないのだ、それだけはよく分かったのだった。  中学に進学すると、遠子はだんだん虚無感に心を支配されるようになっていった。自分はどうせ死ぬのに、何で生きているのだろう、と言う気持ちが始終遠子を苦しめた。でも、一方で自分を嫌っていつも心無い言葉を投げつけてくる母親に対する怒りが、ふつふつと湧き上がるようになっていった。そして、その怒りに駆り立てられるように死に物狂で勉強をして、よい成績を上げていた。  その心のひどいゆがみからか、高校時代には、親にかくれて薬局で精神安定剤を求めて服用するようになっていった。それでも、母親に対する怒りに突き動かされるように勉強して、地方の国立大学に進学することができた。  大学に入ったら、もう親とは離れたいという強い思いから、遠子は自宅からは通えない大学を選んだ。四月のキャンパスは希望にあふれた明るい表情の若者たちで満ちあふれていた。長い間、自宅で母親から受けてきた様々な暴力をもう受けずにすむと思うと、遠子は少し気持ちにゆとりが持てたのであった。  ちょうど、大学は五月の連休から第二日曜日まで、大学祭と称して休校になっていた。里心の付く新入生を家に帰してやって、五月病を予防しようという、大学側のねらいもあったのかもしれない。  遠子も久しぶりに家に帰る気になっていた。それに、もう大学生になった自分に、母親もそうガミガミは言わないだろうと考えたのだ。経済的にもなるべく早く独立したいと思っていた遠子は、アルバイト先ももう見つけていた。今度は、いつまた家に帰れるかは分からなかった。  五月の連休に帰省すると、高校二年生だった美咲ももちろん家にいた。母の日のお祝いをしようと言い出したのは、美咲の方だった。エプロンを上げてかえって嫌な思いをしてから、遠子は母の日にプレゼントを渡すことはもう何年もやめていた。だが、美咲は母親のご機嫌を取るために、毎年カーネーションの花束を少ない小遣いを貯めてプレゼントしていたのだ。  「美咲は今年もカーネーションを上げるから、お姉ちゃんは得意の料理を作ってよ。お祝いしてあげましょうよ」   甘え上手な美咲は、高校生になってもまだ自分の事を‟美咲”と呼んでいた。遠子は料理も食べることも好きだった。大学の始まる前の春休みには、引っ越した下宿先で、サキエに何の気兼ねも無く好きなものを作って食べていた。ちょうどその頃は、ホワイトソースを自分で作れるようになって、マカロニグラタンを作ることに熱中していた。  「そうねぇ……。じゃあマカロニグラタン作って食べながら母の日のお祝いしようか」 「よかった、お姉ちゃんがそう言ってくれて」 「それじゃあ、お姉ちゃんもがんばって、いつもは鶏肉しか入れないんだけど、特別ホタテ貝とそれにエビも入れるわね。あんたは小さいころからエビが好きだったし」  こうして、遠子が大学一年生の母の日は、三人でテーブルを囲むことになった。昼食を済ませたら、遠子は下宿に帰るつもりだった。下宿には無い実家のオーブンで、表面にきつね色の焦げ目の付いたマカロニグラタンは、熱々の湯気を立てて食欲をそそった。  「お母さん、ありがとう」 と二人が言うと、サキエも機嫌よさそうにグラタンを食べ始めた。しかし、サキエの心の中は、久しぶりに遠子に会ったせいで、次第に穏やかではいられなくなっていった。  ちょうど、遠子と同じ自分が十九だったころ、アメリカ人の婚約者の言葉を信じて東京に出て来た。毎日が空腹で、食べたくても食べるものさえ無かった。日中戦争から太平洋戦争と続く長い戦争で、子供のころから、お国のためにと我慢を強いられて来た。今の遠子と同じ年頃の自分は、あばら骨が浮き上がって見えるほどがりがりにやせて、空腹でふらふらしていた。  遠子を中絶できずに生んでしまったため、鉄夫の暴力に苦しめられながら、好きでもない子供の世話をし続けなければならなくなった。遠子さえいなかったら……。それなのに、遠子は今こんなぜいたくな物を食べて笑っていられる。  熱々のおいしいグラタンを食べながら、サキエの考えはどんどん悪い方向へ向かっていった。青森大空襲で被弾した顔と太ももに大きなケロイドがあって、戦争のために一番多感な青春はズタズタになったのだ。その時受けた心の傷は、いまだに癒えてはいない。なのに遠子はおいしいものを好きなだけ食べられ、思春期らしく身体はふっくらとして、人生で今が一番と思われるほどの美しさだ。ああ、遠子さえいなかったら……。サキエの中に、羨望と、嫉妬と、憎悪と敗北感が渦巻いていた。そして、 サキエの口から自分でも思いがけない言葉が飛び出した。 「ぶくぶく太って!豚!」 それから。遠子は……。拒食症に、なった。                 完 
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!