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第3話 笑顔になって
放課後の部室に向かおうとしていた松原は、柄の悪い三年生に肩を抱かれて絡まれている桜井を目にした。
無表情で全く楽しくなさそうだ。それなのに、桜井はその手を振りほどかずにいる。
なんで、そんな男と。
瞬間的に松原の頭に血が上った。
「桜井先輩! 部室で圭先輩が呼んでましたよ!」
松原は、その三年生と桜井がビクッと身体を竦ませるぐらいの大声で叫んでいた。
「……そうなんだ。ありがとう。じゃあ、僕、ブラスバンド行かなきゃ」
桜井がぎこちなく、三年生の腕から抜け出した。廊下の曲がり角を曲がって、三年生の姿が見えなくなったところで、松原は、先を歩いていた桜井の肩を掴んで引き戻した。
「……なんで、あんな奴と付き合おうとするんですか? 圭先輩と別れて寂しいのは分かりますけど、自分を粗末にしないでください。もっと自分を大切にしてください」
静かに怒りを込めて懇願した松原に、桜井は目を逸らし、薄く笑う。
「圭は優しいからさ。僕に新しい彼氏ができるまで、気を遣って、草薙に告白しないと思うんだ。それじゃあの二人可哀想じゃん。せっかく両想いなのに」
「だからって、桜井先輩が自分を犠牲にしていい理由にはならないですよね?!」
筋違いなのは分かっていても怒りを隠せない。
「……心配してくれるのは良いけどさ。別に怒んなくたっていいじゃん」
桜井は少し不貞腐れたような表情で、苛々と親指の爪を噛む。松原は大きく溜息をついた。
「元カレが、他の人を好きになったから振られたんでしょ? それなのに、相手を責めず悪口も言わず、元カレが次の人とうまく行くことばっか心配して……。桜井先輩、健気にも程がありますよ。『悪女』じゃないんだから」
「ぷっ。中島みゆき? なんでそんな古い歌知ってるの? 年齢誤魔化してるんじゃない?」
桜井は片方の眉だけを下げ、面白そうに笑っている。
「や、うちの母親が、たまにカラオケで歌ってるんで」
単純に面白い話を聞いて笑う姿は無邪気で、十七歳という年相応に見える。
悲しそうな顔。
悔しそうな顔。
切なそうな顔。
何かを諦めてしまったような儚い顔。
脳裏に浮かぶ桜井の表情は、いつも年齢に不相応な恋の辛さが裏側に透けて見えていた。
真剣な表情で何かを言いかけ、途中でためらってやめるのを何度か繰り返した後、切なげに声を振り絞った。
「……桜井先輩。俺じゃ、ダメですか」
「ええっ?!」
よほど意表を突かれたのか、桜井はしばし絶句した。
「……年下にはあんまり興味ないんだけど。それに、男と付き合えるの? 同情だったらやめてね」
桜井は腕を組み、怒ったように言い放ち、横目で睨んできた。同情という言葉に彼の誇り高さが窺える。プライドを傷つけてしまったと慌てて誤解を解こうとした。
「いや、同情じゃないっす。
……俺は、桜井先輩を泣かせません。圭先輩はカッコいいです。敵わないのは分かってます。けど圭先輩、桜井先輩と付き合ってるのに草薙先輩にフラフラしてましたよね? 俺そこだけは腹立ってました。桜井先輩に失礼だろって。
俺は、桜井先輩だけです。そういう不安な気持ちにはさせません」
目を逸らず、睨まれても怯みもせず、力強く言い切った。
真剣に求愛された桜井は目を泳がせ軽く頬を赤らめる。
「……僕のどこが良いの? これまで殆ど話したこともないのに」
「一途さとか、思いやりのある優しいところですかね……。あと、思ってることがすぐ顔に出る素直なところとか」
「も、もう良いよ、分かったよ。恥ずかしいから、それ以上言わなくて良いよ。……でも僕、男だよ。付き合える? 例えばさ、僕に今キスできる?」
桜井は慌てたように告白を制し、本当に恋人になりたいのか再度問う。頬を赤らめて「ウグッ」と固まった松原を横目で見て、寂しそうに笑う。
「やっぱ、できないんじゃん。無理だよ、そんなんじゃ。僕と付き合うなんて」
その場を立ち去ろうとした桜井の両肩をガシッと両手で掴んで引き留めた。
「……俺、まだ誰ともキスしたことないんです。だから戸惑っただけで。桜井先輩だから、男だから、とかそういうんじゃないんです」
そう打ち明けてからぎこちなく桜井に口付けた。
キスというより『自分の唇を、桜井の唇に、ムギュっと押し付けた』不器用な仕草だった。顔を傾けるという発想もない。桜井の方が気を利かせて自分から顔を傾けた。
唇を離した松原は改めて桜井を見詰める。
ぎこちなくはあったが、初めてにもかかわらず、臆さず自分から恋する人に口付けた男らしさと、『俺、ちゃんとキスできてましたか?』とでも言いたげな初々しい様子も含めて、松原の純粋な求愛は桜井の胸を打った。
桜井は無言のまま、松原の首に手を回し、自分からもう一度キスをした。松原は驚いたが、桜井からの口付けを受け止める。さっき自分がしたのとはまるで違う。柔らかく、繰り返し優しく唇を食まれ、その甘い衝撃に胸がぎゅうっと掴まれる。
初めて経験する本格的な口付けに身体も心もフワフワしていたが、桜井の華奢な身体をそうっと抱き寄せた。自分の腕で柵を作って、恋しい人を守ってあげるかのように。
「下の名前、何て言うの?」
長いキスが終わった後、濡れた松原の唇を指で拭いながら訊いた。
「……? 亮平です」
その意図を掴みかねつつ答えると、桜井は言った。
「僕、佑だから。二人の時は呼び捨てで良いよ。カレシなんだから」
「えっ!!」
「イヤなら、別に付き合うのやめてもいいけど?」
桜井は、ツンと顎を上げ目を逸らしている。
「イヤじゃないっす嬉しいっす。桜井せんぱ……じゃなくて、佑さん。幸せにします」
食い気味に答える。
「ふふ。なんかそれプロポーズみたい」
桜井は嬉しそうに微笑む。
ああ、その笑顔だ。あなたには、そういう風に笑っていてほしいんだ。松原の胸は熱くなる。
「お付き合いするの初めてなんで、色々、不慣れだとは思いますけど。佑さんに毎日笑っていてもらえるように、俺、頑張ります」
改めて意気込みを伝えると、桜井は今度は意味深で色っぽい笑みを浮かべた。
「ふうん。亮平、チェリーなんだ? キスも僕が初めてだって言ってたしね。じゃあ追々、色々教えてあげないとね」
「ウグッ」
松原の顔は、食べ頃を迎えたサクランボのように赤くなった。
※
二年生の夏の吹奏楽コンクールが終わった頃。自分の教室で、桜井は中等部からのブラスバンド仲間と放課後の部活前の腹ごしらえをしていた。
「あのさ、佑。ちょっと小耳にはさんだんだけど。圭先輩が、今、草薙と付き合ってるらしいって噂があるんだけど……」
おずおず遠慮がちに聞いてきた彼に、桜井は事も無げに言った。
「あぁ。あの二人、くっ付いたんだ。
……僕、圭とは二か月ぐらい前に別れたから。僕も新しいカレシいるしね」
「そ、そうだったんだ!
……どっちにしても、佑が、今、幸せなら良かったよ。新しいカレシって、どんな人? やっぱイケメン?(笑)」
心配しながら見守り、新しい恋を見つけたと聞いて安心してくれる友人に感謝しながら、桜井は優しい笑顔で答えた。
「僕だけを見ててくれて、僕を毎日笑顔にしてくれる人だよ」
~ きみはチェリー 本編
(「僕らの恋の練習曲」スピンオフ) 完 ~
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