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「――っ!」  どくん、と心臓が飛び跳ねる。雲間から月が覗いていた。浮かんだ月の光がベランダを照らす。シリンジの中の液体が瞬間揺れ、月明かりにきらりと光った。シリンジから目を離せなくなった藍は、時間がスローモーションになったかのように錯覚した。 「は……は、」  す、と液体が押し込まれる。目を見開いてその様子を凝視していた藍は、次第に視界が明るくなるのを感じていた。 「あぁ迅……せっかく10日持ち応えたのに」 「でも、だって」 「……」  背筋がすっと冷えた気がした。混沌としていた脳内がぱっと晴れていく。ぱちり、と瞬きをして兄二人を見上げた。  痛々しく眉をひそめた迅、こめかみの傷を押さえ首を横に振る零。  迅は注射器を引き抜くと、何も言わず逃げるように部屋を出ていった。零はそんな迅を慌てて追いかけて行く。この一瞬で何が起こったのか、藍はあまり理解していなかった。ただ、何だろう。身体が軽くて、気持ちいい。 取り残された藍は、おもむろにベランダを振り返った。 「!」  ふわり、と舞う銀髪。  10日ぶりの魔法使いがにっこりと微笑んでいた。あまりにも白い肌が月明かりに青白く、神聖に輝いている。細められたまぶたの下のぷっくりとした涙袋、柔らかそうな頬のいくつかのホクロ。形のよい薄赤い唇は艶やかで、三日月型を象ると白く整った歯が覗いた。  膝を抱えてベランダの柵に座り込んだ魔法使いが、膝の上で組んだ腕に顎を乗せ藍を窺っている。 「やあ、元気?」 「お兄さん!!」  いつも疲れ果て不自由な身体は今日はない。藍は魔法使いへ飛びついた。自分から彼に触れるのは初めてだった。ベランダの魔法使いにしがみついた藍の頭を、細く長い指を持った女性的とも呼べる美しい手が優しく撫でる。 「久しぶりだね」 「なんで、なんで会いに来てくれないんだよ!」 「まあまあ、落ち着いてよ、藍。ちょっとした準備さ」 「準備?」  ぐす、と鼻をすすった藍がしがみついたまま魔法使いを見上げる。そんな藍にくすりと笑った魔法使いは、藍の頬の涙の跡を指でなぞった。石鹸のような淡く清潔な匂いがふわりと香る。鼻孔をくすぐるその匂いを吸い込んで、心がおちついていくのを感じた。魔法使いの匂い。どこかで嗅いだこの匂い。大好きな匂い。なんの匂いだっけ? 「そう、準備」  悪戯気に笑った魔法使いの顔は月明かりに逆光となっている。柵からふわりと降りてきた魔法使いは、優雅な仕草で藍の手を取って握ると、まるでダンスでもするかのようにベランダでステップを踏んだ。ゴミ袋がたまったベランダで藍は足をもつれさせながら、魔法使いに引っ張られるがままに無茶苦茶なダンスを踊った。 「うわ」 「あはは! とっても大がかりな魔法だよ、藍」 「あっは! あはは! 魔法って?」 「幸せで楽しい魔法さ!」  くるりと魔法使いが回転する。魔法使いに回された藍も、くるくる回転して目が回った。魔法使いの手が腰に回り、思い切り身体が反らされる。目に映った空はすっきりと晴れていて、プラネタリウムにでも来たかのような星空だった。半月の光が眩しく、周辺の星は霞んでいる。藍色の空に明るい光、ちらちら光る無数の星。風になびく銀髪からはいい香りがする。  魔法かな、と藍の心が躍った。魔法使いが袖をひるがえす度に星屑がちらちらと舞っていく。  今ここにある現実は白い煙に包まれ、まどろむような夢と共に穏やかに漂っていた。夢見心地で気分がいい。 「これが、魔法?」 「いいや、まだだよ、藍。もっと素晴らしい夜を!」  楽しそうな声と共に浮き上がった魔法使いがぱちん、と指を鳴らす。さっきまで魔法使いと藍の周りを散っていた星屑がベランダから吹き抜けていった。ぱちぱちと室内で目まぐるしく飛び回り、星の軌跡を作っていく。 「さあ、見ていて!」  魔法使いにふわりと手を握られ室内を眺めていると、次第にそれはいつか見た幻想を形作っていった。  整頓された部屋の中の食卓。湯気を立てて並べられる料理を前に、父と兄二人が同じ机を囲んでいた。父が笑う。昔よく見せてくれていたあの柔らかく優しい笑顔で零と迅を見た。零は照れ臭そうに笑って、迅を肘で小突く。迅が零に眉をひそめながらも、ふっと口元を緩めて笑った。 「あぁ……」  まるで別の世界を覗き込んでいるようだった。一度は手を離してしまった、待ち望んでいた家族の形。 「これが魔法だよ」  耳元で魔法使いが囁いた。胸が躍るようなわくわくとした声だった。微かな冷気が肌にかかる。背中をそっと押された。 「いいの?」  興奮と祝福と、湧き上がる気持ちで頬が緩む。許可を求めるように魔法使いを振り返った。魔法使いは藍の背中に手のひらを沿わせ、いつものように微笑んでいた。細められた二重瞼の中に、目尻のホクロが吸い込まれて見えなくなる。相変わらず鈴が鳴るような笑い声を上げると、魔法使いは月に溶けるように微笑んだ。 「もちろん。君のための魔法さ」  魔法使いはさらに空中でくるりと回転すると藍色の羽織りをひるがえした。 「君が望むなら、どんな世界だって創り出そう!」  さあ、と手を向ける。彼は柵の上に立ちあがった。紺色の空が月明かりに白んでいる。今だけはベランダを埋め尽くすゴミ袋が、美しい彼の舞台を見るための客席のように思える。藍はまるで幕が上がった舞台を見上げるようにきらきらと目を輝かせた。 「君の夢を叶えてあげる」  深く、優しい声音が身体の中へ直接響く。体中を駆け巡る痺れるような快感に、藍は身をゆだねた。  ふわり、と優雅な仕草で魔法使いの腕が宙を切る。その軌跡をたどるように、真っ赤な花びらが吹き付け、藍は美しい花の匂いに包まれた。 「うわあっ」  体中に花びらがまとわりつく。吹き付ける風に髪の毛が巻き上がった。 「さあ、受け取って。これはお守りだ」  手の中に、何かひんやりとしたものを感じる。薄く目を開いて確認してみれば、そこには魔法使いがいつもどこからか出してきては握っている銀の杖があった。試しに一振りしてみるとぱちぱちと星の欠片が弾け、深紅の花びらが、純白の花びらが、ふわふわと散っていく。 「あははっ! すごい!」  楽しくなって、ぶんぶん振ればその度魔法に包まれていくようだった。くるくると踊りながら杖を振る。そんな藍を楽し気に見ながら、魔法使いも一緒になって柵の上でステップを踏んだ。 「さあ、さあ、咲かすのです! 花を咲かせて、花びらを踏みしめて! あなただけのユートピアを探すのです!」  たなびくカーテンが音を立てて喜んでいる。魔法使いの背後で星が降った。魔法使いの満面の笑みにつられて、声を上げて笑った。 「楽園は? 理想郷は? あなたはどこへだって行ける!」
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