冷たいあの人

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麦茶が冷たい。 そんな風に感じるのは、外が暑すぎたせいかもしれない。 私の体は冷たい。 それは私が死んでいるからだ。 ただし、死んでいるというのは「呼吸と心臓が停止している状態が継続している」ということに過ぎない。 私は現在「ゾンビ」と呼ばれる状態にある。 ゾンビといっても、人を襲うこともなければ夜行性というわけでもない。主食はお米やパンだし、夜だって眠くなる。人と違うところといえば、体温が気温より低いことぐらいだ。 先月、私は風邪をひいた。 数十年前から、病院にかかるとその他の治療をするか、ゾンビになるかの選択ができるようになった。 私は迷わずゾンビを選んだ。 「ゾンビ」になれば、年はとらないし、病気にもならない。寿命はあるし、怪我だってするけど、多くの人がゾンビになることで快適な人生を歩めている。 百年以上前、世界各地で「ゾンビ」となった人間が報告された。 それらは、最初こそ奇妙に思われたが、発生理由も経緯も分からないまま、徐々に世界に受け入れられていった。なにせ、以前と変わらぬ形を保ち、意識だってはっきりしている。当然、人権というものが失われることはなかった。 研究の結果、ゾンビになった人間の血液を他者が摂取することで、ゾンビになることが可能だということが判明した。 そこからの展開は、目を見張る迅速さであった。重病人への投与に始まり、果ては民間の医療機関での花粉症対策にまで、私たちの医療制度に深く根を張る存在へと駆け上がった。 体温が低いままなぜ活動できるのか、まったく不可解でありながら、百年以上も解明はなされぬままだ。 しかし今では、ゾンビになることは病院で花粉症薬をもらうのと、同等の気軽さで行われるようになっていた。 私の彼は数日前に軽い風邪の症状があった。彼はゾンビになることに憧れはなく、あまり気乗りしないようだったが、私はゾンビになることを強く勧めた。私が若いままだというのに、彼が年老いていく姿を想像すると寂しかったからだ。 彼がゾンビになることに気乗りしなかったのは、都市伝説が関係しているのかもしれない。 ゾンビは自然の摂理に逆らう存在であるという批判から、謎の宗教団体が設立され、ゾンビとなった人々を呪い殺す方法を画策しているとか、著名な預言者が「いずれ彼等には罰が下り、代償を払わされる」とお告げがあったとかなかったとか。 いずれにせよ、こうして彼の家にお呼ばれしたのだから、風邪の症状は改善されたようだ。果たして彼は病院に行ったのだろうか。 私に麦茶を出し、早々にトイレへと行った彼だが、彼がゾンビになったかどうか、私が気にしていることは分かっているはずだ。 彼がトイレに入った直後、テレビの画面が切り替わりニュース速報が流れた。世界各地でゾンビとなった人々が突然死を迎えているそうだ。とある宗教団体が「ゾンビは寿命を共有していただけに過ぎない。正しい在り方に戻るときがきた。代償は今から払われる」と声明を出していた。 彼がトイレから出た瞬間に私はテレビを消した。 水道で手を洗う音が聞こえる。 私へと近づく足音が聞こえる。 彼は私のそばに寄ると、自身の冷たい手を私の手に重ねた。
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