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「福岡の大学でも良かろうもん? 東京は怖さもあるとぞ」
志望校を決めようかという時、父さんがそう言ったのをよく覚えている。
「受かるとなら行ってみたかよ」
父さんは、ふい、と息を吐き、
「そうか。まあ、雅紀が決めたらそれでよかけどな」
と、諦めるように言った。
父さんが一言だけでも添えたかった気持ちは分かる。父さんのお兄さんにあたる叔父さんが昨年やつれた顔で東京から唐津へ帰ってきたからだ。
「東京は怖かとこばい。やっぱ唐津の人間がやっていけるとこやないっちゃんね」
叔父さんは父さんに悲しげな視線を送りながらそう言った。その言葉は脳裏に焼き付いている。父さんは大人だけにもっとその言葉を理解できていたのだろう。ことさら地味で大人しい僕が東京で上手くやっていけるか心配だったと思う。
いざ引っ越しの日。母さんは今にも泣きそうな顔をして、父さんは久し振りに僕の頭に手を置いた。幼い頃の温かい思い出が頭頂部に伝わった。
「元気でおるとばい。無理せんでよかけんが。自分を無理せんでも雅紀には雅紀の役割があるっちゃけんな」
父さんはそう言って僕を見送った。
父さんが送ってくれた言葉の意味を僕は今、まだ理解できていない。
僕の役割とは何なのだろう。
大学ではただ講義に出て、サークルに入るでもなく、バイトでも地味な存在だ。自分で言うのもなんだが、僕は僕自身が透明に見えることがある。
──吉野、どうした? ボーッとして。
ふと気づくと、店内の喧騒が耳に飛び込んできた。今日もここ『焼肉ダイニングエブリ』は忙しい。手が止まっていたようで、見上げると古市リーダーが首を傾げていた。
目の前を研修中の森口さんがあくせくして通り過ぎていく。カートを押しながら「いらっしゃいませぇ!」の快活な挨拶は忘れない。しばし見惚れていた。
「ほら、森口の隣のテーブル片付けてこい」
「あ、すみません!」
テーブルでは既に門脇くんがせっせとグラスを集めていた。
「ちょいちょい! おっせーよ。吉野は排気な」
「ごめんごめん」
アルコールで丁寧に排気口を拭きながら店内を見渡した。森口さんが笑顔でお客様にトイレを案内している。門脇くんが既に片付け終え、古市リーダーが隈なく店内と厨房に目を配っている。厨房からはうるさいくらいの三嶋さんと小笠原さんの声が響いていた。
皆の個性がここ焼肉ダイニングエブリを盛り上げていた。
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