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空いているカウンター席に座ると、実はそんなにお腹が空いていないことを思い出した。しかし衝動的に買ってしまったものは仕方がない。
──そう言えば。去年も一昨年も、この日にまったく同じ間違いをしていたような気がしないでもない。あの子の幻影に誘われ、カップケーキを手に取るというルーティーン。思わず目の前のそれを睨みつけ、小さく噴き出した。
白い皿の上で愛らしく佇んでいるカップケーキは、ふわふわとなめらかなチョコレートムースの帽子をかぶっている。これがアンタの晩御飯よ、と楽し気に笑う彼女の甘いソプラノがどこかで聞こえた気がした。
「いただきます」と手を合わせ、薄くスライスしたナッツとチョコチップで飾られたケーキにかぶりつく。しっとりとした生地の中からとろりとジャムが溢れ出て、甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。
これはラズベリーのジャムだろうか。遠く過ぎ去った青春の味がする。
目に見えるちっぽけな世界をすべてだと思い、輝いていたあの頃。お気に入りのCDをかけるように、何度も何度も繰り返し思い出したくなる……そんな感傷が、舌先にいつまでも絡みついて離れてくれなかった。
鬱屈していた少女時代を輝いていたといえるのは、それだけ遠くに来てしまったからなのか。
「早く大人になって、こんな田舎なんか出て、東京に行きたいな。そしたら丸の内でショッピングしたり、神田のカフェでお茶するような生活すんの……もちろんアンタも一緒よ」
いつか、寂れた公園のブランコを漕ぎながら、あの子がそう言っていたのを思い出した。
「私は博物館の方が興味あるなぁ。ナイトミュージアムってやつ。仕事を定時で切り上げて、毎日でも見に行きたい」
「アンタらしい」と、カラカラ笑う彼女の高い声が、不思議と不快ではなかったのを覚えている。
……大学を卒業してから、彼女とは自然と会わなくなった。丸の内まで一緒に出かけることも、カフェに誘うこともなくなった。
別に嫌いになったわけでない。むしろずっと、ずっと大切なままだった。
それでも会わなくなったのは、互いのスケジュールの問題と──そもそもの行動範囲からして、私たちはかけ離れていたから。
お洒落好きで賑やかな彼女と、地味で落ち着いた場所を好む私。同じ学校、同じ学年、同じクラスで出逢わなければ、本来知り合うことすらなかった二人。それが親友同士だったのだから、つくづく人の縁とは不思議なものだ。
そしてかつての親友は、つい四十八時間前に五歳年上の商社マンと式を挙げた。三日後にはカリフォルニア入りだ。夫の転勤について行くらしいが、向こうでうまくやっていけるだろうか……あの子、英語の成績は私より悪かったのに。
今更ながら、一抹の寂しさが芽生えてしまう。
招待状をもらうまで、多忙にかまけてほとんど連絡すら取り合わなかったくせに、随分勝手なものである。こういう自分の淡白さが昔から嫌いだった。
あの子は……それが大人っぽくて良いと、微笑んで肯定してくれたけれど。
「アンタのだけ特別、カップケーキにしてやろうかと思ったの」
引き出物を渡されるとき、私にだけ聞こえるようにいたずらっぽく囁いたあの目が忘れられない。艶めくコーラルピンクのシャドウを乗せた目蓋は、毎年「友チョコ」と称して手作りのカップケーキを贈りあっていた学生時代を思い起こさせた。彼女が好きなのはチョコレート味で、私はベリームース。
「また今年もおんなじね」と笑いあって、放課後のブランコで二人、かじかんだ手で頬張ったあの日が何よりも特別だった。
味にムラのある、地味でつたないカップケーキ。素朴なそれがあんなに美味しく感じられたのは、きっとあの子もおんなじだったのだろう。
かぷり、かぷりと齧るたび、バターの香りをまとった生地がほろほろと崩れて唇を汚す。アールグレイで口直しをする前に汚れを拭き取ると、食べ屑に混じってリップの赤が紙ナプキンに滲んでいた。
……お互いに友チョコを贈りあっていた時は、口紅を気にすることなんてなかったのにな。
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