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「ーーーはぁ、冷たい女だよ」 季節は6月。 目当ての花の開花時期は5〜7月だから、ちょうどいい時期だ。 夏に向かう日差しは午前中から暑いくらいで、空気もかなり蒸している。 この山には昨夜、だいぶ雨が降ったようだ。 駐車場のアスファルトはまだ黒く、濡れた色を帯びていた。 「湿った場所に生えるらしいし、生育環境としては適してるのかもな」 *** 営業として勤めている会社の人事部社員である美香とは、ひと月まえに付き合い始めた。 昨年の初夏、激務に追われてメンタルをやられ、半年ほど休職していた頃。 休職手続きや産業医への面談などで、細かく世話をしてくれた彼女に好意を抱いた。 女性としては高身長の165cm。少し冷たい印象すらある美人で、言い寄る男性社員も多かったそうだが。 誰とも付き合わないので「人事部の高嶺の花」とか「触れずの雪女」とか呼ばれていた。 師走の1日。休職開けの復職日。 世話になった挨拶をと人事部を訪れた時、彼女は一人自席で弁当を食べていた。 昼休み中に訪ねたことを詫び、礼を言うと。 彼女はマスク越しに「回復されて本当に良かったです」と言って、柔らかく微笑んでくれた。 恋に落ちたのは多分、その時だったと思う。 そんな高嶺の花に玉砕覚悟で告白して、OKを貰えたのだから人生わからない。 何度か食事に誘った時に、趣味の登山の話をしていて彼女も自然が好きだと言っていたから、感性が合ったのかもしれない。 半年ほどかけて距離を詰め、GW後頃に付き合い始めて。 それでもコロナ関係で気を遣いながら、お互い感染しないように細心の注意を払って過ごしていた矢先だったのだ。 *** 登山用バックパックを背負い、靴を確認する。紐や靴底の綻びもない。 携帯食料、水ボトルよし。スマホよし、充電器よし。 トレッキングポールを押してもしなりもしない。大丈夫だ。 山奥に分け入れば電波が届かないので、スマホを使えるとは期待していないが。 いざ不慮の事態が起きた時には居場所を知らせる発信機にもなるから、無くすわけにはいかない。 時刻は、午前10時過ぎを指していた。 登頂を目指すわけではないが、それなりの位置までは登るので出発した方が良さそうだ。 持ち物を確かめているうち、登山ベストの胸ポケットに入れてきた「それ」のことを思い出す。 取り出して見つめる。白地のサテン生地に、赤い刺繍糸で文字が刻まれていた。 「『大御山神社 勝守』、ねぇ」
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