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彼女がコンビニに通っていた期間は、決して長いものではない。
でもきっと私にとって彼女は多分ほんのちょっとだけ、特別な存在だった。彼女の中で私は何者にもならなかったけど、もしかすると彼女にとっても。
「先輩、あのお客さんと何話してたんですか?」
彼女の姿が見えなくなるまで見送った私に、後輩君がコッソリ声を掛けてくる。
「ううん、そうだなー、秘密の話かなぁ」
「なんですかそれ」
不自然な間があった。
中々傍から立ち去らない後輩君に、お客さんがまだ来ないことをしっかり確認した後、どうしたのかと尋ねようと口を開く。
私が声を出すよりも後輩君が声を掛けてきた方が先だった。
「……先輩、いえ──佐藤さん」
名前を呼ばれて、驚いて振り向く。
後輩君と、いや──後輩の田中君としっかり目が合った。
私よりほんの少し下にある田中君の目線が私のそれと絡む。私より年下の癖にいつも冷静な彼にしては珍しく緊張した面持ちで僅かに顔を赤らめながら、彼は目の前でゆっくり息を吸い込んだ。
「佐藤さん、あの、もし良かったら、バイト終わった後、帰りにファミレスで夕食とか、どうですか……?」
「へ?」
彼の言葉が脳みそで処理されるまでにしばらく時間がかかった。
ファミレス。コンビニ弁当ではなくて、ファミレス。コンビニ愛としてはどうなのかという感じなのだがそれはそれ。
「えぇえ!?」
我知らず、一気に顔に熱が集まったのが分かった。
真剣な表情で返事を待っている田中君の瞳に映りこんだ私には、名前がある。田中君の呼ぶべき名前がちゃんとある。
自分でもその時ようやく気付いたんだけど、私はずっと名前を呼ばれることが怖かったんだと思う。私だけを呼ぶ名前を呼ばれて、特別になるってことが。
私──佐藤美咲の趣味は人間観察だ。ネームレスな第三者。私は何度も、観察者から当事者になる事で失敗した。
名前ある物語の登場人物には責任がある。
私は田中君への答えを探しながら、頭の片隅で彼女のことを思い出していた。
私は彼女の名前を知らない。彼女も私の名前を知らない。
それでも私は彼女に認識された。綺麗な彼女は他の誰でもない、私にお礼を言った。そのことがその時、私の背中をちょっとだけ押してくれた。
大きく息を吐いて吸う。
思ったのは、コーヒー一杯分のお釣りは意外と高くついたなということと、彼女のあの綺麗なルージュは何を使っているのか聞いとくべきだったなということだった。
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