7. 過去と幸せ ※

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 布のすれる音で意識が戻され、うっすらと目を開けた。日の光が窓から差し込みその眩しさがむしろ心地よい。  ぼんやりとしたまま上体を起こすと腰に鈍い痛みがはしり、思わず顔が歪む。 「いって……」  不意に出した声がいつも以上にかすれきっていて、それを皮切りに徐々に昨夜の記憶がよみがえり始めた。  ……あぁ、そうだ。あんだけ泣いたら、そりゃこうなるか。  今更になって恥ずかしくなってきて片手で顔をおおう。  九條の前で泣いたのははじめてじゃないけど、冷静になるとさすがにきつい。あの時も暫くたってから我に返って悶え死んだし。  それに今回は、大好きだのずっとそばにいてだの、恥ずかしい言葉を泣きながら叫びまくった。我ながらキャラじゃないにも程がある。  ……体に昨日の痕跡が残っていないあたり、後処理もしてくれたんだろう。それを思うと申し訳ないし余計にいたたまれない。  ため息をつき視線を落とすと、隣で九條が穏やかな寝息をたてていた。その幼さも感じる顔に自然と口角が緩む。  九條の髪の毛を手で弄っていると少しして体が動き、綺麗な茶色の目が俺をとらえた。 「りつ、と?」 「あー……、おはよ」  昨日の熱っぽいあの目を思い出してしまいまた動揺する。どぎまぎして視線を逸らすと、九條ががばりと上体を起こした。 「体は大丈夫ですか?」  真剣そうな顔のくせに髪の毛がぴょんぴょんはねていて、思わず吹き出す。 「ははっ、急に起きるじゃん」 「結構無理をさせた気がするので」 「なんともねぇよ。俺頑丈だし」 「でも途中で気絶するみたいに寝ただろ」  そう言われぐっと言葉につまる。泣き疲れて寝たのは何となく覚えてるけど、泣きすぎたのが理由だなんてさすがに言いたくない。 「わるかった。終わったあと片付けとかあったろ。ありがとな」  誤魔化すようにそう答える。九條は変わらず心配そうな顔で俺の頬に手をおいた。 「それは全然いいですけど。とにかく、今日は部屋にいてくださいね」 「いや、別に平気......」  甘ったるい視線に耐えきれず俯くと、九條にそのまま顎をつかまれ目を合わせられた。 「かわいい顔してますね」 「……っ、やめろ」 「昨日は素直な反応してたのに」 「そういうの蒸し返すのよくねぇだろ」 「あぁ、もしかして恥ずかしい?」  九條が楽しそうに顔をちかづけてくる。  こいつこんなSっ気あったっけ?あーくそ、俺で童貞捨てたからって調子乗りやがって。 「顔赤い。かわいいな」  ニヤリと笑うその様子にどきりと心臓がはねる。こんな風にいじられる側なんてそこまで好きじゃないはずなのに、いよいよ本当におかしくなったらしい。 「あ、はは、ちょっと落ち着こうか、九條くん」 「?」 「……っ、貴也、で満足かよ」 「うん」  ポンと頭をさわられる。胸の辺りがぎゅっとして、表情を隠すように顔を伏せた。鼓動ははやくなっているのに、妙に気分がふわふわしてつい笑ってしまいそうような、そんな不思議な心地良さに包まれている。  自分がこんなにも良い思いをしていいんだろうか。あまりの幸福感についそんなことまで考えてしまって口を開いた。 「俺明日死ぬかも」 「はぁ?」 「運使い果たした気しかしねぇ」  今の状態から落とされたら正直立ち直れる気がしない。でも、これまでのことを考えるとどうしても不安は拭えなかった。  呆れた顔されてんだろうなぁ、なんて目線をあげると、九條はなぜか柔らかく笑っていた。それから優しい声で言う。 「そんなわけないだろ。俺がいるんだから」 「ははっ、そういうこと言われると俺また泣いちゃうなぁ」  冗談めかして返したが、実際本当に泣きそうだった。涙腺が馬鹿になってしまったのか感情がすぐに涙に直結しかけている。 「泣いてどうぞ。いつでも慰めますよ」 「や、別にまじで泣くわけじゃねぇんだけど?」 「ほんっと、嘘つくの下手になりましたねぇ」 「……くそ、なんなんだよ」  九條の反応が分かりやすくて俺はそれをからかう。そんな攻勢は、いつの間にか変わっていた。  髪を撫でられ、不覚にも目の奥が熱くなった。それでもこれ以上泣くのはさすがに嫌で、軽く目を擦って息を吐く。それと同時に言うつもりのなかった言葉が口からこぼれ落ちた。 「俺さ、今まで嫌なことばっかだったんだ」  なんでこのタイミングで言ってしまったのか分からない。顔を見なくても分かるほどに九條の動揺が伝わってきたし、自分でも驚いた。 「あー……、変なこと言ったな、忘れろ」  やらかした。そう思って、なんてことないように笑ってみせる。うまく表情をつくれていなかったのか、九條は険しい顔をして俺の手を握った。 「溜め込んでるものがあるなら我慢するな」  有無を言わせぬ口調の中にも、相変わらず気をつかってきているのが分かった。 「ためこんでる、ってほどじゃない、けど……」  辛いという感情をこれまでに上手く吐き出せたことがない。それにいくらこいつの前でも、こうも暗いところをわざわざ掘り返して俺と一緒に嫌な思いをさせるのは嫌だった。もう終わったことばかりなんだから。  変なことを言いたくない。そのうち消える。  大丈夫。  大丈夫だから。 「律人」 「……っ」  促すような優しい声に、つい、緩んだ。 「おれ、さ」  気づけば口を開いていた。  自分の中でずっと黒く渦巻いていた、それでも無理やり蓋をして表に出さないようにしていたものがドロドロと喉元までせりあがってきて、 「苦しいことばっかだったんだ」 「学校も嫌いだった。友達だったやつは喧嘩別れしちゃうし」 「俺が父さんに似てるから、母さんがおかしくなって目の前で死んだんだよ」 「ほとんど眠れなくなるし、頭いてぇし、なんで生きてんのかわかんねぇって思った」 「一成さんも俺と一緒じゃなくなっちゃうし」 「お前と離れたくないのに俺はこんな依存体質で、だから離れねぇとって思って、でも嫌だった」 「ずっと死にたかった」    堰を切ったように一気に言葉が溢れていた。吐き捨てるように言い切って我に返る。ハッと顔を上げると、九條が目を見開いて俺を見ていた。  自分の言ったことを反芻しどっと冷や汗が噴き出す。  さすがにこれはない。さっきまでいいムードで、昨日なんてあれだけのことをしてもらって。  それなのに今、こんな身勝手で重苦しいことを。 「あー、その、ちがくて。わりぃ、ちょっと盛ったな。死にたいとか、さすがに思ってなんか、っ!?」  不意に抱き寄せられた。それだけでも驚いたのに、九條は泣きそうな声で言う。 「ごめん」 「ごめんって、なにが……」 「もっと早くこうなれてたかもしれなかったんだ。なのに、俺が……」  ぐすりと鼻をすする音が聞こえてきてギョッとした。うまく頭が回らなくて、泣かせてしまったんじゃないかという事実に血の気が引く。 「な、泣いてんの?」 「だって」  ……まじか。  聞こえてきた声が完全に涙声になっていて、焦るあまり硬直する。泣いているところを見るなんていつぶりか分からない。 「な、何したら泣き止む?」  焦った結果出てきたのはそんな言葉で、我ながら頭を抱えた。自分は散々泣いて慰めてもらってこの有様はどうなんだよ、ほんとに。 「慌てすぎだろ」  少しして九條が俺から体を離し、目をこすりながら俺を見て呆れたように笑った。それでも頬に涙のあとがあって、思わず九條の顎を片手で掴む。 「りつと?」  どうすればいいか分からないまま、体の動くままにそのまま顔を寄せ触れるだけのキスをした。それからすぐに顔を離して言う。 「泣かせたかったわけじゃない。何一つお前のせいじゃないから、泣く必要ねぇよ」  九條は暫くぽかんとしていたが、少しして小さく笑った。 「焦ってキスってお前。ふふっ」 「……笑うことねぇだろ」  そんな反応をされると自分がかなり恥ずかしいことをしたような気がしてきて、顔に熱が集まる。それでも笑ってくれたのにほっとしていると九條はゆっくりと口を開いた。 「なんというか、うん、俺が自分を許せないだけなんだよ。今よりずっとガキだった。お前がどれだけ思い詰めているか分かってなかった」 「……っ、だからそれは」 「でも、今日言ってくれて良かった」  九條の雰囲気がふっと柔らかくなった。それから、明るいけれどどこか寂しそうな顔で言う。 「これからは俺の方からすぐに気づくようにするから。もう絶対にそんな思いはさせない。全部一緒に向き合うよ」  はっきりとした口調で言い切られ、心が落ち着いていくのが分かった。 「……そっか」  あぁ、やっぱりこいつは俺とは違う。悔やむばかりじゃなくて前を向ける人間なんだ。今までそれが眩しくもあった。俺なんかとは一緒にいるべきじゃないと、何度もそう思った。  でも、今は。 「ありがとな、貴也」  ごめんと言いたくなる気持ちを飲み込んでそう口にした。こう言えるようになっただけ少しは俺も変われてるのかな。なんて、さすがに甘いか。  自嘲気味になって少し笑いそうになっていると、ポンと頭に手を置かれた。そのまま髪を撫でられ最後にそっと頬に手を置かれる。 「俺にはお前だけだよ。どう変わったって律人が好きだ」  考えたことを読まれたかのようだった。欲しい言葉がゆっくりと自分の中にはいってくる。  いつか俺が、母親みたいにおかしくなるんじゃないかと言ったのを覚えていたからなのかもしれない。でも今はただ、嬉しくて心が和らぐ。  どう変わったって好きって、まじか。こんなんなのにな、俺。どれだけ明るく振舞ったって根は病んでるし、ネガティブだし、シンプルに性格悪いと思うし。  あぁ、でも  生きてていいんだろうな。  当たり前なはずなのに、今までそう思えたことがなかった。全部貴也のおかげだ。 「俺も、大好き」  素直に言葉がこぼれ落ちる。貴也は少し驚いたような顔をしたあと、にっと笑った。 「あぁ、分かってる」  そのまま自然に顔を寄せられる。とろけるような幸福感につつまれながら、俺はそれを受け入れた。
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