まるでおとぎ話シリーズ番外編『春の雪』32

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まるでおとぎ話シリーズ番外編『春の雪』32

 あっ、髪留め忘れちゃった。  お兄ちゃんの部屋で薬湯を飲んだ時、付け直そうとテーブルに置いてそのままだわ。  玄関の姿見を見て気付いたので、戻ることにした。  やっぱりあの黄金色に輝く髪留めがないと、やる気が出ないのよね。  心が風に舞うように軽くなるのよ。 「わ、もうこんな時間だわ。遅刻しちゃう」  急いで階段を駆け上り、何も考えずにお兄ちゃんの部屋の扉を開いたの。 「お兄ちゃん、ごめんね! 忘れ物しちゃった」 「は、春子!」  目の前の光景に心臓が飛び出る程、驚いた! 兄ちゃんがテツさんに覆い被され……ふたりの唇はぴたりと重なっていた。すぐに離れたけれども、見逃さなかったわ。    お兄ちゃんの濡れた唇……潤んだ瞳。  あなたは本当に春子のお兄ちゃんなの? 「な……何? 何をしていたの?」  お兄ちゃんが慌てて飛び起きてテツさんを押し退けて、私の前に駆けつけた。その時、胸元の白いシャツが乱れ、胸元がちらりと見えた。  白い胸元に咲く赤い花に……目眩がした。 「そんな……まさか……ふたりは……いやああ! お兄ちゃんの馬鹿、馬鹿!」 「待て、春子! 聞いてくれ! 頼む!」  お兄ちゃんの声を振り切り、部屋を飛び出した。  いやっ、いやだ!  なんで? 春子のお兄ちゃんが……!  **** 「まぁ、春子ちゃん、一体どうしたの?」  白江さんの家に飛び込み彼女の顔を見たら、涙が止まらなくなってしまった。 「ぐすっ……酷い! お兄ちゃんなんて、大っ嫌い!」 「お、落ちついて。一体何があったの?」 「……」 「私には話せるでしょう。女同士ですもの。ね、何でも話して」 「ううっ……白江さんも知っていたんですね。だから前、お兄ちゃんには赤ちゃんがやってこないって」 「あ……もしかして」 「お兄ちゃんとテツさんが愛しあっているのを、知っていたんですね」  なんで? どうして? 海里さんと柊一さんの話を聞いた時は、驚く程すんなりと受け入れられたのに……。  あの二人はもう存在自体が雲の上の人だから、おとぎ話気分で聞いていたのよ。他人事のように。  でもお兄ちゃんは違う! あまりに現実的で身近過ぎるわ。  しかも……二人が接吻している所を見てしまったのも、大打撃だった。 「落ち着いて、春子ちゃんは、桂人くんの話をちゃんと聞いたの? 彼は内緒にしていたわけではないでしょう」 「う……ううぅ、知らない! お兄ちゃんの馬鹿! 嘘つき!」  白江さんの言葉を無視して、暴言を吐いてしまった。    私だって多少は怪しいと思っていたの。師匠と弟子にしては、あまりに仲の良い様子に今朝も訝しんでいたのよ。でもそれを認めるのが怖くて、自分でも分からない感情だった。 だから感情の収まる場所がなくて、まるで大切なおもちゃを取り上げられた子供のように泣き叫んで、喚いてしまった。   「もういや! こんな家、出て行く! お……お兄ちゃんなんて大っ嫌い! 汚い!」 「春子ちゃん、いい加減にしなさい! 落ち着きなさい!」 白江さんにピシッと頬を叩かれた。 「あっ……」 「叩いてごめんね。正気に戻って、春子ちゃんの気持ちも分かる! でもね、桂人くんの過酷な人生を思えば、そんな言葉はお願いよ、言わないで。彼……今やっと幸せに暮らしているのよ。お兄ちゃんが好きなら、どうか理解してあげて……!」  白江さんも眼を赤くして泣いていた。それから私をすっぽり抱きしめてくれた。お姉さんみたいな温もりに、荒れ狂っていた心が凪いできた。 「ううっ……本当は……違うの。お兄ちゃんは嘘つきなんかじゃない。春子をちゃんと迎えに来てくれたし、いつだって真実しか口にしてなかったのに」  どうしたらいいの?  こんな落ち着かない感情、どうしたらいいの? 「白江さん、春子……分からない、分からないよぉぉ」  そのまま泣き崩れてしまった。  兄がテツさんと愛したっていることがショックだったのか。  兄を取られてしまったのが、悲しいのか。  すんなり受け入れられない自分自身が、悲しいのか。 「どうしよう」 「落ち着こう。ねっ、私と少しお話しょう」 「……今日は帰りたくない」 「うんうん、今日は私の家に泊まって行くといいわ。主人は出張で帰ってこないし、ゆっくりしていって」 「白江さん……ごめんなさい」  
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