まるでおとぎ話シリーズ番外編『春の雪』33

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まるでおとぎ話シリーズ番外編『春の雪』33

「春子! 待ってくれ! おれの話を聞いてくれ!」  おれの制止を振り切って、春子が飛び出して行ってしまった。  手が虚しく、空を掴む。  おれが朝からテツさんの身体を強請らなければ良かった。あんな瞬間をよりによって直視されるとは。  おれの唇は、濡れていただろう?  おれの眼は潤んでいたのでは?  おれは春子の知らない顔をしていた。  一瞬呆然としたが、すぐに窓を開けて玄関先を見下ろした。  すると傘も差さずに春子が飛び出して、そのまま向かいの家に駆け込んで行くのが見えた。 「春子……っ」  雨に濡れるのも構わず、俺は窓辺に張り出している木の枝に飛び移ろうとした。  春子を追いかけよう! お前にがっかりされたくない。お前にだけは……。 「待て、桂人! 少し落ち着け」  ところが今度はテツさんに制された。胴体を掴まれ部屋に引きずり戻された。 「放してくれよ! 行かないと!」 「落ち着け。そんな状態で行っても埒が明かない」 「うっ、だが、だが!」  雨に濡れた顔に、涙が上塗りされていく。 「おれ、春子に嫌われたくないんだよ!」  テツさんがおれを力強く抱きしめてくれる。 「あぁ、あぁ分かっている! ちゃんと知っている。お前の大事な妹だもんな」 「うっ」 「桂人は何も悪い事をしていないし、嘘もついていない。そして俺も桂人との関係を恥じてなんていない。お前もだろう?」 「あぁそうだ……テツさんが好きだ! だがテツさん、おれ……どうしたらいいのか、分からないんだよ」 ****  ガタガタと震える桂人。  お前は普段は雄々しくもあるのに、時に酷く脆く繊細になってしまう。  どれ程の時間、そんなお前を抱きしめていたか。やがて階段を静かに上る音が聞こえ、扉の向こうに柊一の声がした。 「テツさん、入ってもいいですか」 「あぁ」  いつの間にか腕の中の桂人は泣き疲れたようで、眠っていた。    これは彼特有の防御反応なのだ。適応しきれないことがあると桂人は殻に閉じ困ってしまう。おそらく狭い社で過ごした長い年月に身につけた術なのだろう。  また冷たくなっているな。体温も……どんどん下がっている。  まるで冬眠するように、桂人は眠りに落ちてしまった。 「春子ちゃんのことですが、白江さんから連絡があって先ほど聞きました」 「そうか、白江さんはなんと?」 「春子ちゃんは、今はかなりショックを受けて心が荒れてしまっているので、今日は白江さんの家に泊まるそうです」 「そうか、それがいいかもしれない。桂人もこんな状態だし」 「難しいのでしょうか。やはり同性で愛し合うということは、理解し難いのでしょうか」  柊一が寂しそうに聞いてくる。 「俺はそうは思わない。柊一だって、本心はそんな風に思っていないだろう。海里さんとのこと、そんな風には……」 「はい、僕は何も恥じていません」  柊一は芯の強い男だ。優しく温和そうな雰囲気の中に、秘めたる当主の顔を覗かせている。 「春子ちゃんはまだ若いです。10年ぶりにお兄さんと再会して、心が5歳の頃に戻っていたのかもしれませんね。今すぐに……全てを理解し受け入れるのは難しいかもしれませんが、必ず時が解決してくれると信じています。ここは女同士……白江さんを頼ってみませんか。彼女は僕の幼馴染みで信頼出来ますし、桂人さんとテツさんの事情も深く理解してくれています」  確かに、女性同士の方がいいかもしれない。  冬郷家の屋敷は男ばかりだ。しかも同性で恋愛している男が四人もいて特殊な環境に置かれすぎた。そうだ、ひとりだけいた。春子ちゃんの立場を理解できる同じ立場の人間が。 「あとは……雪也なら」 「雪也くんなら」  柊一さんと声が重なった。どうやら同じことを考えていたらしい。 「明日、雪也に迎えに行ってもらおうかと……雪也なら同年代だし、春子ちゃんとは仲が良いし、似た立場だから……もしかしたら心を許せるかも」 「それがいい」 「あの……桂人さん大丈夫でしょうか。真っ青です……」  桂人は繭の中にいるように、布団に丸まっていた。 「すっかり閉じこもってしまったな。あの日、消えてしまったように」  桂人という人間は、まだ完璧ではないのだ。  10年という暗黒の日々から、完全には抜け切れていない。だからあまりにショックなことがあると、自分から後ずさりしてしまうのだ。 「海里さんが帰宅したら、診ていただきましょう。今日は雨ですし、テツさんは仕事はいいですから桂人さんを見守ってあげてください。目覚めた時にひとりだと寂しいでしょうから」 「柊一、ありがとう」 「いえ、僕にも痛い程分かります。もしも雪也に海里さんとのことを受け入れてもらえなかったら、かなり打撃を受けたはずです」  深い森で道に迷ったのなら、一度立ち止まって、何かいい方法を探せばいい。   ひとりではない。  俺も桂人も、ひとりではないのだから。 周りを頼って、知恵を集めてでも、突き進みたい道がある。
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