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まるでおとぎ話シリーズ番外編『春の雪』36
「おはよう! 春子ちゃん」
眠りから覚めると、そこは一面ピンクの世界だった。
まるで春の洪水!
桜の樹の下で眠っているような心地だった。
ベッドも枕も、ふわふわだわ。
「春子ちゃん、起きた?」
「え! あ……白江さん」
「良かった。正気に戻ってくれたのね」
私、昨日……? あぁ、そうだった。兄とテツさんの接吻を目の当たりにし、酷い言葉を投げつけて飛び出して……ここで散々泣き喚いて眠ってしまったのね。
「白江さん、ごめんなさい。迷惑をかけて」
「春子ちゃん、私には謝らなくてもいいのよ。でも冷静になったのなら、少しお話ししようか」
「はい」
白江さんが提案してくれたことは、思ってもみないことだった。
いつも通いでやって来るピアノの先生が私を住み込みで雇いたいなんて、驚いたわ。
とても上品でお優しい先生は、お嬢さんご夫婦を事故で亡くされ、旦那さまにも先立たれて一人暮らし。話し相手と家の家事を手伝ってくれれば、学校にも通わせてくれるそう。
「ね、春子ちゃんにとって、いい話だと思うの。私はね、春子ちゃんはまだ若いのだから、色々な世界を見て視野を広げて欲しいし、学校にも通って欲しいの。桂人くんとのことも、今すぐ解決しなくてもいいのでは? 時間が解決することもあるの忘れないで」
どうしよう! また一つ道が増えたわ。
ずっと人生を選ぶ権利なんてない1本道を歩いてきたのに、今は違うのね。
私……人生の岐路に立っている。
急にお兄ちゃんのことが心配になってきた。
「あの、兄が今どうしているか……分かりますか」
「桂人くんは春子ちゃんと同じで、深い眠りに落ちてしまったそうよ。現実を受け入れられずに……」
「お兄ちゃんが?」
お兄ちゃん、昨日……私の言葉にショックを受けて青ざめていた。
『待ってくれ、聞いてくれ』と呼び止められたのに、私は振り返りもせずに飛び出してしまった。
お兄ちゃんの元に早く戻らないと。
でも、あんな風に飛び出して来てしまったので、帰り難い。
「春子ちゃん、ほらお迎えが来たわよ」
「え?」
窓辺に立っていた白江さんが微笑んだ。
お兄ちゃんだったら、どうしよう?
ドキドキ見下ろすと、雪くんだった。
「雪くん!」
「雪也くんと話ながら帰るといいわ。さっきの返事も待っているわね。先方は今すぐにでもと乗り気だし、先生は本当に人徳者で、きっと学ぶことも多いわ。春子ちゃん素敵なレディになれるわよ」
「レディ……?」
「素敵な貴婦人のことよ。つまり淑女という意味よ」
そんな世界……縁遠いと思っていた。
****
春子ちゃんのことを、兄に頼まれて白江さんの家まで迎えに来た。
玄関から上を見上げると、春子ちゃんがちょうど窓辺に立っていた。
ピンク色のドレスのような物を着た春子ちゃんは、まるで春の女神のように綺麗だった。
「か、可愛い……」
僕に気付き嬉しそうに手を振ってくれたので、胸を撫で下ろした。
桂人さんの意識が戻らないと、朝から海里先生と兄さまが話していたから……もしかして春子ちゃんも? と心配していた。
居間で待っていると、先ほどのふわふわのドレスから着替えた春子ちゃんが白江さんと一緒にやってきた。
今度は白江さんの服を借りたらしく、水色に白襟の清楚なワンピース姿だった。春子ちゃんの美しい顔立ちによく似合っていて、胸がドキドキと高鳴ってしまった。
「雪くん、迎えに来てくれてありがとう」
「春子ちゃん、事情は聞いたから、説明しなくてもいいよ。それで……もう帰れるかな?」
「ん……」
どうやら、まだ少し気まずいようだ。
「じゃあ僕とお茶しない?」
「お茶?」
「そうだよ、君を連れて行きたい場所があって」
「……雪くんとなら行って見たい」
嬉しいことを。
「ふふ、あとはお若いお二人さんでどうぞ」
白江さんからは籐のバスケットを手渡された。
「あの、これは?」
「ティーセットよ。雪也くんが春子ちゃんを常套文句で逢い引きしていたのが微笑ましくて」
「あ……ありがとう。白江さん」
「雪也くん、ファイト!」
「な……何を言って……」
照れ臭いよ。
白江さんには、もうバレバレなのかな。
春子ちゃんを連れて冬郷家に戻り、すぐに離れには向かわず、中庭の奥にある小さな花壇に向かった。
「あの……どこへ行くの?」
「桂人さんの庭だよ」
「お兄ちゃんの?」
「そう」
そこには菜の花とチューリップで溢れる小さな庭園が出来ていた。
「わぁ……華やかなお花畑ね」
「この庭は……テツさんが桂人さんを慰めるために贈ったものだよ」
「お兄ちゃん? ふぅん……どちらかというと女性が好みそう。私のお兄ちゃんは男なのに……」
春子ちゃんには、テツさんの真意がまだ読み取れないようだった。
「ここはね……桂人さんが気に掛けていた妹さんをイメージした庭だそうだよ」
「あ……それってもしかして……私のこと?」
「そうだよ。テツさんも15歳で家族と離れ、庭師として生きてきた孤独な人だった。そんな彼が桂人さんと惹かれ合ったのは、同じ境遇を分かち合えるのもあったのだろうね。彼は朴訥とした人で言葉が少ないけれども、本当に懐が深い人なんだ。優しく包み込むような温かい心の人だよ」
テツさんのことは、海里さんから教えてもらった。海里さんが15歳の時、東北から突然連れられてきた孤独な少年だったことも、生贄だったことも。
「……うん、それは分かる」
「桂人さんとの関係……驚くのも無理はないよ……だからすぐに受け入れられなくても当然だ」
「ありがとう。雪くんも白江さんと同じことを言ってくれるのね」
「僕も大好きで大切な兄が、女性でなく同性と恋に落ちて……それを見守る立場なんだ。春子ちゃんと同じだ。だから君に寄り添いたい」
春子ちゃんはハッとした表情を浮かべていた。
今にも泣き出しそうだ。
「君の味方だよ。僕は――」
「ど……どうして……雪くんは、そんなに優しいの?」
春子ちゃんの目は、花畑に向けられていた。
その目元には涙が滲んでいた。
雪也……頑張れ!
ここで伝えないと男でないぞ。
勇気を振り絞って、僕はとうとう告げた。
生まれて初めての愛の告白だった。
「君が好きだから!」
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