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『春の雪』後日談 ~テツと桂人の場合~①
テツさんが作ってくれる薬湯は相変わらず苦く、あれこれ工夫してくれているようだが、積極的には飲めなかった。
「なんだ桂人、まだ飲んでいなかったのか」
「……苦手だ」
「まったく我が儘だな。さては褒美が欲しいのだな」
「今日は何? おれ……ここ数日、瑠衣さんのスパルタ執事教育に耐えたんだ」
また子供みたいに甘えてしまった。だが、おれがこんな風になるのはテツさん限定だ。
テツさんが大きな手で、頭を撫でてくれる。
あぁ……気持ちいい。そのまま俺の髪を指先で弄られドキドキしてしまう。
「今日は……全部飲んだら、これを読んでやる」
「あっ! 春子からの手紙が届いたのか」
「そうだ、さっきな」
「わかった! 飲む! 今すぐ飲むから!」
「コイツ……っ、現金だな」
額を指でパチンと弾かれ、笑われた。
テツさんが見守る中ゴクリと飲み干すと、喉の奥がヒリヒリした。
「うっ……(まずい)」
「よし、いい子だ。ほら、春子ちゃんからの手紙だ。どんどん達筆になるな」
おれは15歳から教育を受けられなかったので、相変わらず読めない漢字が多い。春子もおれと同じ立場だったのだが、勤め先の老婦人は春子に仕事よりも勉強やマナーを教えてくれる時間の方が長いようで、みるみる上達していくのが手に取るように分かる。
「さぁ、こっちに来い。読んでやろう」
「知らない漢字が増えて、どんどん読めなくなる。おれも頑張らないとな……」
テツさんが、ベッドの横で胡座をかいて手招きしてくれた。
春子からの手紙は、いつもテツさんに全部見せて、読んでもらう。それがおれたちの憩いの時間にもなっていた。テツさんには春子のことも含め、おれのすべてを知って欲しい。おれという人間がどういう人間か……見届けて欲しいんだ。
便箋をテツさんに差し出し、おれも隣に座った。
「なぁ、今日は何と書いてある?」
「ん? これは……」
「どうした?」
「途中から英文だ……待てよ、そこまでは読んでやるから」
「英語? あぁ、アーサーさんがたまに話すやつか」
「そうだ」
……
お兄ちゃん、お元気ですか。
私は練馬のお屋敷で、元気にやっています。
お仕事よりお勉強が忙しい位で、嬉しい悲鳴です。
最近はピアノを習い出しました。それから英語も!
こちらの奥様は本当にお優しくて、私の新しいお祖母様のようよ。
今日は練習も兼ねて、英語でお手紙を書くわね。
テツさんに読んでもらってね。
……
「春子……良かったな。それに言葉遣いもますます綺麗になって……テツさん、それで……その先は? 英語も全部読んでくれよ」
「うーむ、実は俺も英語はちゃんと習っていなくてな……悪い」
「え……ちょっと見せてくれよ」
おれには、案の定何一つ読めない文章だった。
……
It seems the summer holiday season has come again, hasn't it?
It's been a while since we last saw each other, and I hope all continues to go well for you.
All of us here continue to be doing fine. We wish you a wonderful vacation time.
……
「今すぐ……読みたい」
「分かった。じゃあ今から母屋に行こう。こんな時は柊一さんなら瞬時に訳してくれるだろう」
「あ、そうか……! でも今日は雪也くんが旅立ったばかりで落ち込んでいるんじゃないか」
「だからこそだ。励ましに行こう。気持ちの晴れるハーブティーを手土産にしよう」
テツさんは戸棚から、自分が育てたハーブを乾燥したものを取り出した。
春子が出て行ってから、3ヶ月後、雪也くんまで、冬郷家を出て行くとはな。
若い二人は行動力がある。二十歳の再会まで……それぞれがそれぞれの場所で頑張るのか。夢と希望に溢れて、眩しいよ。おれは応援している。おれが出来なかったことを叶えて欲しいから。
雪也くんの留学は、春子にもきちんと知らせよう。きっと春子の英語の勉強にも精が出るだろう。
離れを出て本館の玄関前に立った時、何か音がした。人の声? いや動物か……甘ったるくか細い……何かだ。
「テツさん、何か聞こえないか。か細い鳴き声みたいなの……」
「さぁ? 猫でも鳴いているんだろう」
「そうかな?」
「さぁ早く行こう!」
「あぁ」
気にも留めず階段を上ると、その音が人の声だということが分かった。しかも……この声って……とても官能的で熱くなるものだ。
おれがよく知っている……あの時の……じゃないか!
テツさんと顔を見合わせ、思いっきり赤くなってしまった。
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