『春の雪』後日談 ~テツと桂人の場合~③

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『春の雪』後日談 ~テツと桂人の場合~③

 朝食後、庭の手入れをしていると、正面玄関から和やかな声がした。  耳を澄ませば、砂糖菓子のような甘い囁きが聞こえてくる。  薔薇の生垣の茂みから覗くと……やはり海里さんと柊一だった。  出勤する海里さんのネクタイを、柊一が目を細めて整えている。  海里さんは、お礼にと……ちゅっと柊一の額に口づけを落とした。    相変わらずの溺愛ぶりですね。    その光景……未だに信じられないですよ。  海里さんは、森宮家にいた頃のクールな様子からは考えられないデレ具合だ。あの頃の彼は氷の壁を周囲に張り巡らしているようで、『氷の王子』と使用人の間で囁かれていたな。    「柊一、では行ってくるよ。その……本当に身体は大丈夫か」 「は……はい。あの……」 「やはり、どこか痛むのか。すまない。昨夜は羽目を外してしまった」 「いえ、そうではなくて……あの……もしも昨日の可愛い声の猫を屋敷内で見つけたら……餌をあげても?」 「可愛い声? 猫? ははっ、いいよ。見つけたら飼ってもいいぞ」 「え! 本当ですか」  やれやれ、勝手にやってろ! その猫は俺だ!  勝手に飼い慣らすなよ。だが…… 「くくっ」  本当に柊一は変わっている。冬郷家の当主として毅然としている時はカッコイイのに……あどけなさが半端ないな。  桂人にも笑われた俺の不貞不貞しい鳴き声を、可愛い猫だと?   うん、彼はやはりいい子だ。海里さん……どうか大事にしてやって下さいよ。 「おい、テツ、何一人でニヤついている?」 「わ! いつからいたんですか」 「今来たところだ。お前の麦わら帽子が見えたからさ。あのさ……昨日はありがとうな」 「……何のことです?」 「フン、可愛い猫め! どれ、もう一度鳴いてみろよ」  海里さんが俺の顎をクイッと掴むので、真っ赤になってしまった。 「はは! テツは不慣れ過ぎるぞ。そんな調子で、桂人を満足させられるのか」  そこで、ハッとした。 「そうだ。海里さんに折り入って頼みがあります」 「なんだ? 珍しいな」 「夏休みが欲しいです」 「ん? また、どこかに行くのか」 「花火が見える場所はどこですか。俺は疎くて――」  昨日のことだ。多くを望まない桂人がぽつんと漏らした、か細い言葉が気になって仕方がない。  『おれだって……花火……見たかった』  春子ちゃんが出て行って意気消沈している桂人を、少しでも励ましてやりたい。そんな時は『気分を変えて旅に出ろ』と、師匠がよく言っていた。 「奇遇だな。実は俺たちも夏休みを取ろうと考えていたんだ。8月のお盆の頃にレストランの増築工事が入るので、その間、俺も仕事が休みを取ったんだ。せっかくだから一緒に行くか」 「え!」  頭の中でぐるぐると考えを張り巡らせてしまった。  確かに旅など滅多にしたこともなく、テントか野宿しかしたことがない俺では、心許ない。桂人には、いい思い出を作ってやりたい。 「実は、お隣の白江さんが所有の別荘を貸してくれるそうだ。由比ヶ浜といって神奈川の海の近くで……海上に花火が上がるんだ。面白そうだろう? きっと桂人も喜ぶぞ」   海里さんの提案は魅力的だった。花火もいいが、そもそも桂人は海をちゃんと見たことがあるのか。北国の山奥の村で育った俺たちにとって……海は遠い存在だった。だからこそ……広い海を見せてやりたい。世界は広いということを見せてやりたい。 「一緒に行きます!」 「よし! じゃあ決定だな」  という理由で、俺たちは夏休みに合同で旅行に行くことになった。  昨日の笑った顔があまりに幼く、可愛らしかったから……もっともっと笑って欲しくなったのだ。
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