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『春の雪』後日談 ~テツと桂人の場合④
「桂人、お前は……海をちゃんと見たことがあるか」
「海? 列車の中から見たことはあるが……近くではないな」
「よし、決まりだな」
「何が?」
「来月、旅行に行くぞ。そして海の近くに泊まる」
桂人はピンと来ないようで、首を傾げていた。
「あの……テツさん、すまない。旅行とは……なんだ?」
「ん? そこから聞くのか」
桂人はそんなことも知らないのか……。
参ったな……これは切なくなる。
書庫から英語辞典と一緒に借りてきた国語辞典が目に留まったので、桂人に手渡してやった。
やはり桂人は、まだまだこれからの男なのだ。ますます広い世界を見せてやりたくなる。
「ほら、自分で調べろ。この辞書を引いてみろ」
「あぁ……『りょ……こう』だったか」
分厚い辞典を真剣な眼差しで見つめる桂木の伏し目がちな顔は、とても美しい。長い睫毛が陰影を生み、細い鼻梁も、すっと鼻筋が通り本当に綺麗だ。
お前……本当に、月の精みたいだな。
かぐや姫のように天に帰ったりするなよ。
「りょ……こう……」
男にしては細い指が、紙の上をゆっくり這うのが色っぽい仕草だと思った。身体を重ねる時……白いスーツの上を這う指を思い出す。俺に揺さぶられた桂人が、ひっきりなしの快楽の波を堪え……シーツをキュッと握りしめる仕草も好きだ。
「あ……これか?」
「よし、読んでみろ」
「あぁ『旅行とは……定まった地を離れて、ひととき他の土地へゆくこと』とある。へぇ……ひとときの土地か……まるで夢を見ることのようだな」※広辞苑より
桂人が寂しげにふっと、微笑んだ。
冬の間、動物の冬眠のように眠り続けていたと聞いた。一体どのような夢を見ていたのだろうか。
「夢の世界では、俺は自由だったから……どこにでも行けそうな気がしたが……おれはあの村しか知らない子供だったので、いつも代わり映えのない夢ばかりだったよ」
「桂人、よく聞け。旅行は夢じゃない。お前のこの目で見て、この身体で体験する物だ。ここではない違う土地の匂いを嗅ぎ、新しい風を浴びるのだ。ともかく連れて行くぞ」
「あぁ、いいよ。あなたが行くのなら、おれも行くさ。もう、ひとりは嫌だから……」
グッとくる言葉を吐かれれば、俺の理性は今宵も容易く崩れ落ちる。
桂人の腕を引き寄せ、布団に誘う。
「そろそろ寝るか」
「あぁ」
俺の大きな身体で、桂人の華奢な躰を覆い隠し、熱い口づけをする。
「あ……っ」
「楽しみしていろ。お前に『旅行』というものを教えてやるから」
「あぁ、おれは……あなたから学ぶ……愛も、人生もすべて……それでいいんだよな?」
「そうだ……それでいい」
弱い首筋を下で舐めてやれば、桂人がビクビクと過敏に震える。
「ここ、すっかり弱くなったな」
「あなたが……そこばかり弄るからだ」
作務衣の袷を大きく乱して平らな胸を露わにし、淡い色の尖りを摘まむ。
「はぁっ……」
ため息交じりの、熱く甘い息を……艶めかしく吐く。その息が胸元にかかり、下半身が疼き出す。
「ふぅ……テツさん……早く、温めてくれ」
この身体をもっと熱くしてやりたい。煮えたぎるように……。
これからの未来、俺と共に色々な事を体験し、俺との日々に根を下ろして欲しい。
「熱くなれ、今宵も……もう、どこにも行くなよ」
「ん……っ、旅行が……楽しみだ」
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