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『春の雪』後日談 ~テツと桂人の場合⑥
13時、そろそろ白猫が冬郷家に到着したはずだ。
柊一は屋敷に放った白猫を無事に見つけられるかな。きっと最初は驚き、それから喜び、胸元に優しく抱きしめるだろう。
「ふっ……」
柊一の姿を想像し……思わず笑みが漏れると、隣で昼食を取っていた同僚に奇妙な顔をされた。
「あの……森宮先生、もしかして熱でも?」
「はぁ? 何故そんな突拍子もないことを?」
「いや……ひとりで笑っていたので」
気まずくて思わず口元を手で覆ってしまったじゃないか。いちいち突っ込むなよ。
「俺だって人の子だ。人並みにも笑うさ」
「ですが、思い出し笑いみたいで……いやぁ……なんだか奇妙というか、意外でした」
「そ、そうか」
俺……普段、そんなに気難しい顔をしているか。確かに外科医の仕事は多忙過ぎる。働き盛りの30代だ。手術に診察、検査に学会など、日々目まぐるしく過ぎて、日中……柊一を想う暇もない程だ。
だが今日は違う。
俺は、柊一をおとぎの国に招待した魔法使いの気分だ。
昨日の朝……君があまりに猫を飼いたそうにしていたので、仕事帰りにペットショップに寄り、即決で猫を購入してしまった。だから今日は……柊一の猫熱を高める引き金になったテツに、猫の受け取りなどを内密に頼んで来たのだ。
俺が見つけたのは、毛並みのいい真っ白な猫で、血統書付だった。
冬郷家の当主、柊一が飼うのに相応しい、気品のある可愛い子猫だ。
昨夜の寝床での会話を思いだし、またニヤつきそうになり背筋を伸ばした。
「さぁオペの準備をするぞ」
****
昨夜の冬郷家――
「柊一、そろそろおいで」
「あの、少しお待ちくださいね」
「ん?」
柊一が窓を全開にし、部屋の扉までご丁寧に開けている。
一体何をしているのだろう?
この広い屋敷に俺たちだけなので、君の艶めいた声がまた響き渡っても構わないが、何故そんなにいそいそと張り切って?
「何故、窓を開ける?」
「あ……あの、ですね」
「ん?」
「その……朝のお話しです。実は今日ずっと猫を探したのですが、どうしても見つからなくて」
「え? あれから、ずっと探していたのか」
「はい……もしかして昨日もこの位の時間だったので、今日もやって来るかなと」
いや、それはナイナイ! テツは懲りて近づかないぞ!
しかしまぁ……柊一は、なんて清らかな子なんだ。
やはり今日の帰り道、猫を内密に手配して正解だな。
「きっと今日は……もう眠っているよ。明日、また探してご覧」
「そうですね。では窓は一旦閉めますね」
「そうしよう。そうだ、一階の茶室の改装が終わったようだね」
「はい。ようやく桂人さんにお披露目出来ますね」
「あぁ、テツも桂人も口には出さないが、和室が恋しいだろう」
「僕も、そう思います」
もともとは、柊一が申し出たことだ。
俺もまだこの広い冬郷家の全部を把握していないが、一階の奥庭に面して小さな茅葺き屋根の茶室があるのは知っていた。故郷を置いて移り住んでくれたテツと桂人に使ってもらうのはどうかと相談を受け、すぐに大工を手配したのだ。
「そう言えば、茶室の竣工祝いというわけではないが、テツと桂人の故郷の和菓子を買って来たよ。明日、皆で食べるといい」
「海里さん……海里さんは、やはりとてもお優しい方ですね」
柊一が俺の胸に、滑らかな頬を乗せてくれる。
うっとりと目を閉じる君の頭の中は、まだ猫のことで一杯なのか、蕩けるような笑顔を浮かべていた。
「海里さん……僕は、本当は……少し寂しかったのです。 雪也がいなくなってしまって、心にぽっかり穴が空いてしまったようで……だから猫がいたらいいなと……」
柊一は見えないように顔を埋めてしまったが、肩が小刻みに震えていた。
だからギュッと抱き寄せた。
昨日、雪也くんの晴れ晴れとした旅立ちを応援し見送ったが、残された方は、やはり寂しいものだ。よく分かるよ。俺も瑠衣が日本にいないのは寂しいし、桂人もそうだろう。春子ちゃんとの別れは相当堪えていたようだ。
「柊一の寂しさ……分かるよ。隠さなくていい。だが……俺も仕事が忙しくて、帰りが遅くなってすまない」
「とんでもないです。立派なお仕事をいつも誇りに思っています」
「ありがとう……いつか、もっと先になるが老後は君とゆっくり海が見える診療所でも構えて、のんびりと過ごしたいものだ。そうしたらずっと一緒にいられるだろう?」
「いいですね。楽しみにしています。僕は何をしようかな。あ、お料理は任せてくださいね。その頃には煮魚も上手になっていますよ」
柊一を優しく抱きしめ……彼が眠くなるまで、ゆったりと将来の夢を語り合った。
こんな時間も悪くない。
和やかな時が過ぎていく――
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