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『春の雪』後日談 ~テツと桂人の場合⑧
「さてと流石に仕事に戻るか。午前中は白猫に夢中でサボってしまったしな」
伸びをしながら歩き出すと、今度は桂人が廊下を歩いて来るのが目に入った。
へぇ、今日は執事服を見事に着こなしているな。先日瑠衣が一時帰国して桂人を鍛えていったので、今日は服を着崩すこともなく、背筋をピンと伸ばして歩いている。
よしよし、品があって美しいぞ。
そうやっていると、瑠衣と見間違えそうだ。
お前も一歩一歩、成長しているのだな。
「柊一さん、どこですか」
各部屋の扉をノックしながら、柊一を探しているようだ。
やがて奥の部屋で、猫を抱いた柊一と会えたようだ。
様子を庭先から伺っていると、二人はそのまま更に奥に歩き出した。
ん? あんな場所に渡り廊下があるのか 俺もまだこの広い屋敷の全てを把握しているわけではないので興味を持った。
庭伝いに二人の後を忍者のようについていくと、突然茅葺き屋根の茶室らしき建物が現れたので驚いた。
冬郷家の屋敷は、森宮家と違って洋風なのに、まさかこんな本格的な茶室があるとは。
もしかして秋田の山奥にあった俺の家は、こんなだったか。
15歳で家を出てもう20年だ。
詳細は思い出せないが懐かしくもなる故郷の家。
久しぶりに畳に触れたい欲求に駆られた。桂人も同じ気持ちだったのか、白い猫を抱いたまま、畳にごろりと横になった。
そのまま頬を畳に擦り寄せて、泣きそうな顔を浮かべた。
その顔があまりに幼かったので、胸の奥が切なくなった。
誰かを偲んでいるのか。亡くなった人を……?
やがて、抹茶茶碗を持って戻ってきた柊一が桂人に菓子を勧める。
その白い包みには見覚えがあった。
なんだったかな、俺はあれを食べたことがある。
「テツさん! テツさん、そこにいらっしゃいますよね。こちらへどうぞ」
おっと柊一はなかなか目敏いな。俺は樹木に一体化して隠れていたのに。
「テツさん? そこにいるのか。こっちに来てくれよ。これを一緒に食べてくれよ」
桂人の声は、少しだけ潤んでいた。
「あぁ今、行く!」
ザザッと小高い丘を滑り降りて茶室に行くと、白猫が桂人の胸から俺のところにすっ飛んできたので、驚いてひっくり返ってしまったじゃないか。
「わ! わぁ~!」
「みゃああ~♡」
白猫が俺の作務衣の袷に顔を突っ込み、胸元をペロペロしてくる。
「わわ! おい! やめろ! 俺はお前のかーさんじゃないぞ」
「ぷっ」
「ははっ」
柊一と桂人が顔を見合わせて、明るく笑った。
二人の笑顔を見たいと願ったが……待てよ! これはなんか違う!
「テツさんを母猫だと?」
「まさか、こんな図体の大きな母猫はいませんよ」
「でもとても懐いていますよ」
「だな」
俺は小さくて可愛い白猫を無下にも出来ず、ひっくり返ったまま乳を舐められ悶えているのに、二人は呑気な会話をするなんて。
あーもう! 海里さんこの猫、本当に血統書がついてるんですかぁ~!!
「そうだ、子猫に名前をつけましょう。桂人さん、何がいいでしょうか」
「おれには気の利いた名前なんて、浮かびませんよ」
「うーん、困ったな。そういえばメスでしょうか。それともオスかな?」
「あぁ、オスでしたよ」
「可愛いですね。テツさんとじゃれ合って」
「ははっ、ですね。そうだ……テツさんにちなんで、テテにしましょうか」
「可愛いです! テテ~おいで」
「みゃあ!」
おい、桂人よ。あとで覚えておけよ。
ようやく猫が離れると、桂人がふっと笑みを浮かべながら俺に手を差し出してくれた。
「テツさん、お疲れさま」
「桂人、お前なぁ~」
「これ、どうぞ」
口の放り込まれたのは、故郷の味だった。
「あ……これは」
「諸越ですよ」
口の中で甘く溶けていく干菓子に、ふと母の顔を思いだした。
俺にも母がいたんだなぁ。
この猫にも母がいたのだろう。
そういえば……ここにいる者は皆、母との縁が薄い者ばかりだ。
「僕たちは男ですが、子猫に甘えられると母性が湧きますね」
柊一の一言に深く頷いた。
「テテ……僕たちの子におなり」
柊一が白猫を優しく天使のように抱きしめた。
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