岩の中の聖者

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 その日は一等寒く、朝から粉雪がちらつく日だった。エダンがこの修道院に来て、数ヶ月が経過していた。夕方にパンとスープとチーズを運ぶと、今日の声はどうしたのかとバルバロに問われた。少し音程が不安定だったからか、風邪でも引いたのかと心配されたのだ。 「寒かったから、朝は喉の調子が悪かったのです。ですが今は大丈夫です」 「そうか、うん。いつもと違ったから気になっていた。君の声は本当に綺麗だ。誠実で、全てを清めてくれる」 「世辞を言っても何も出ませんよ」 「世辞ではない。本当にそう思うのだ。それに、君の歌を聞くと、岩の中のマリア像も涙を流す」  岩の中にはマリア像があるのだと、エダンはその時初めて知った。マリア像が涙を流すのはただの比喩だろう。身のあまる賛辞に、エダンは暗い笑いしか返せなかった。 「本当に、そんなものではないんです」  身が凍るほど寒い中、互いに茶色の修道服姿だった。手元のスープが急速に温度を失っていく。バルバロはエダンの喉の調子を案じたが、エダンは老人の様子を憂慮していた。今日は特に顔色が悪い。もしかしたら明日本当に冷たくなってしまうのではないかと思われるほどだった。  だから語る気になってしまった。 「私は失敗作だったのです」  バルバロはエダンの顔を静かに凝視する。 「私の家は貧しく、兄弟が多かった。父は信心深いけれど余裕がなくて、母は私が5歳の時に亡くなってしまった。週に一度、教会に行ったときにいただくパンが唯一のご馳走だった」  木造の狭い家には、家族がぎゅうぎゅうに詰められていた。エダンは自分が六人兄弟の末っ子だったような気がしているが、本当はもっと兄弟がいたのかもしれない。父のカルロが管理する農地は痩せていて、なかなか実らなかった。家で食べるパンと教会で食べるパンは、根本的に違っていた。家のパンは食べられるだけ御の字、という出来のものだった。教会のパンは、体の中に幸せを与えてくれるものだった。 「私は教会が好きだった。きらきらひかる極彩色の窓も、高すぎるほど高い尖塔も、光の粒が揃ったような聖歌も」  ただ美味しいパンが食べられるから、教会が好きになったのではない。  父は何かを勘違いしたのだ。教会の中でただ声を伸ばすと、広い空間の中で驚くほど音が高く舞い踊った。教会という場所は、音が伸びやすくできている。神を賛辞するにふさわしい音になるために。本当に、ただの勘違いだったのだ。  カルロは息子の歌を聞いて、こう呟いた。頭を撫でた父親の手のひらは凍るほどで、爪まで土が入り込んで疲れ果てていた。 「この声は売れる」  この声さえ、永遠に続けば。  カルロは神父に頼み込んで、エダンを近隣の音楽学校へと入学させた。そこに至るまでは、あまり思い出したくない。父に怪しい古屋に連れて行かれ、痛みとともに意識を失った。気がついた時には体が変わってしまっていた。自分の体が、気が付かないうちに汚されたように思えた。音楽学校に入学させるために、父がいくら神父に金を渡したのか、エダンは考えたくはない。音楽学校で待っていたのは激しい競争だった。数年歌と楽典にのめり込み、そうして気がついた。  声変わりがきたものと、声変わりをしなかったものとで真っ二つに別れたのだ。前者の人間は、後者の人間をだんだん恐れ、蔑みを込めて魔物と罵るようになった。  エダンは自分の喉に触れた。隣の老人と同じように、ぽこりとした山がある。しかし出てくる声は、少女の音だ。  自分のような声のものも、成功する人間もいるにはいた。成功した人間は、劇場や大教会で歌い、天使と呼ばれるようになった。どこまでも響く優しく甘い声で、愛を歌い、神に賛辞を届ける歌手。父はエダンが劇場で歌い、喝采を浴びる姿を夢見たのだ。  しかしエダンは競争からこぼれ落ちていった。  優しいけれどこれは売れない。癒されるだけで力がない。劇場には向かない、弱い声。  自分は歌と教会が好きな、普通の、なんの才能のない人間だとエダンはわかっていた。これが普通の体の人間だったらいいだろう。だが、自分はどうだろう。少女のような声。普通の男とは違う身体。音楽学校から一歩外に出てしまえば、奇異の目に晒されてしまう。 「昔のことです。今はここに来られてよかったと思います」  言葉のように割り切れない自らを自覚していた。そして自分のように、競争から溢れていった人間は少なくないということもエダンは知っていた。十人のうち十人は蔑みの中で生きなくてはならない。元の体に戻れたら、もしくは、本当に女だったらどんなによかっただろうか。幸運だったと思い込まなくてはならないのは、一種の悲劇だ。  エダンは自分の声が嫌いだ。この声にした父も恨みたくなる。あの時感じた痛みを忘れることは、決してない。 「しかし君には歌がある」  バルバロは項垂れたエダンの頭に触れた。血が通っているのを疑うほど冷たかった。 「石像を掘りながら、私は君の歌を心待ちにしていた。この声に赦されたらどんなにいいだろうと。私は君の私には君のような声はない。だから私は石像を掘り続ける。私が亡くなった後に、神の物語をのちに伝えられたらそれで良い」 「それだったら、この中ではなく、もっと堂々とした場所で作ればいいのではないですか?」  バルバロは寂しそうに笑いながら、首を横に振った。 「私はかつてすべての十戒を破った。だからこの中がふさわしい。昔のことだが、忘れられない。」  重みを感じざるを得ない言葉だった。十戒。モーセがシナイ山から受け取った神からの契約。エダンの頭の中で、してはならないことが駆け巡る。詳しく聞くべきなのだろうか。それとも、聞かぬのが正しいのだろうか。老人は戸惑いを隠せないエダンの髪を撫でた。十戒を全て破ったと自称する男とは思えぬほど優しい仕草だった。離れがたいほど哀れみ深い冷たい手。割り切れないのはバルバロも同じなのだ。緩慢な動きで老人は立ち上がる。まだ掘らなくてはいけないというように。  その夜、バルバロは本当に息を引き取った。
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