8. 変化した関係

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8. 変化した関係

朝起きて、こんなにも憂鬱な気持ちになるのは久しぶりだった。今の会社に転職してから、「行きたくない」だなんて思ったことは一度もない。 (あんなことするつもり、なかったのに) 俺は酒を飲んでも記憶を飛ばさないタイプだ。 ガッツリ覚えてる。だからこそ、あの日の自分の暴走っぷりには、ため息しか出ない。 後悔したところで、やってしまったことは無かったことにはできないんだけど。 "酔っていたから"では済まされないことをやってしまった俺は、なんて馬鹿な奴なんだろう。 「……あー…、出社したくないなぁ」 布団をかぶりながら、ぐるぐると考える。 あの日、朝になったら天利さんの姿は消えていた。 土日が休みだったのが幸いして、次の日すぐ会うことは避けられたけど、まぁつまり、先延ばしにしてるだけであって。 重たい体を引きずりながら支度をする。 俺のやったことは犯罪にも等しい。いや、犯罪だ。 そりゃ、天利さんは承諾してくれたけど……でも、その優しさにつけ込んで、あんなことやこんなこと、……色々なことが思い出されて、頭を抱えたくなる。 「好きな人、か…」 天利さんが言っていた言葉を反芻し、自分で自分に追い打ちをかける。 いや、だって、知らなかった。 一体誰が好きなんだろう。気になる。 鏡に映る自分の顔は酷いもんだ。 頬を何度かベチベチと叩き、気合を入れる。 辛いのは天利さんだ。天利さんからなら殴られても仕方ない。冷たくされても、仕方ない。 そんなことを考えながら、俺はやっと家を出た。 ** (……ビックリするほど何も起こらない) 恐る恐る出社したものの、天利さんはいつも通りに見えた。 いつものように的確な指示、いつものように部下を気遣う姿。それを見て、もしかして俺は悪い夢でも見てたのか?と疑ったくらいだ。 まぁ、そもそも俺は外回りが忙しくて、まともに天利さんとは話せなかったけれど。 昼食をとったあと、自席に戻る。 天利さんは……あ、居た。部長と話してる。 結局、今日は一度も顔を合わせていない。 合わせたら合わせたで、何を言えばいいのか分からないから助かったけど、……あっ、もしかして避けられてるのか…?! 行き当たった結論に、そわそわと落ち着かない気持ちになる。じっと天利さんの背を見つめていると、その向こうにいた部長と目が合った。 「丁度いい、菅谷。お前も来い。頼みがある」 「え、あ、はい。何でしょうか」 部長がちょいちょいっと手招きをして俺を呼び寄せる。部長の机の前に小走りで近づき、天利さんの隣に並ぶ。 「二人で買い物に行ってくれ」 部長がニコニコしながら告げる。 ……って、買い物?え、何の? 「今度、会長の誕生日があるだろう。ささやかながら、うちの部署でも催し物をやるそうだ。そのための買い出し、だな」 俺が頭に疑問符を並べていると、天利さんが説明してくれた。優しい、と思いながら横顔を盗み見る。 いやでも、さっきの俺の結論は間違ってなかったようだ…。だって、いつもだったら俺の方を向きながら言ってくれる。それなのに今は全くこちらを向いてくれない。自業自得とはいえ、悲しすぎる。 「もう買う物のメモはもらった。準備ができたら行くぞ、菅谷」 「は、はい」 天利さんに促され、素早く支度をして会社を出発する。 (き、気まずい……) 普段、何をどう話していたのか分からない。 歩いてる時も、エレベーターの中も、店で品物を選んでる時も、天利さんはほとんど黙ったままだった。必要最低限なことは伝えてくれるものの、だいぶ辛い。 天利さんは仕事熱心な人だから、きっとこれからも最低限な会話はしてくれると思う。 でも俺は、そんな関係……嫌だな。 「あの…っ!」 「……。どうした」 買い物が大方終わり、あと少し、というところで、俺は腹を括って天利さんに話しかけた。 前を歩く天利さんは、俺の声を聞いてピタリと足を止めてくれた。振り向いてはくれないけれど、俺の言葉に耳を傾けてくれているようだ。 「俺とは、顔も合わせたくないですか」 「……そういうわけでは」 天利さんの前に回り込み、正面から見つめる。 ああ、困った顔をしてる。 「謝らせてほしいんです」 「……何をしても忘れてやると言っただろう。謝ることなんて何もない」 「わ、忘れてないじゃないですか。だから今日、俺のこと避けたり、顔を見たりしてくれなかったんですよね?」 「……。」 天利さんは、真っ直ぐ俺を見つめてくれた。 目が迷ってる。その表情は、何か言葉を探しているようだった。 「……お前だって、忘れたいだろう。あの日のお前はだいぶ酔っていて、判断能力なんてなかった」 「忘れられません。だって天利さんは、俺の気持ちを分かった上で、慰めてくれたんですよね。正直、それは嬉しかったです。そりゃ、まぁ、次の日は……俺って馬鹿な奴だなって思いましたけど」 天利さんが好きだって気持ちを受け止めてくれたのは嬉しいんだ。受け入れてはくれなかったけど、それでも、"俺"を見てくれたような気がして。 「だから、ごめんなさい、天利さん。俺、あなたに酷いことをしました。殴っても構いません」 「そんなことはしない。そもそも、俺はいいと言った。だからお前は悪くない」 なんて優しい人なんだろう。 俺を殴るどころか、俺の気持ちに寄り添ってくれてる。いい人すぎやしないか。 「避けたのは悪かった。正直、お前とどう接するのが正解なのか分からなくて、迷っていた。だが、お前が反省しているというなら、それを受け入れる」 「天利さん……!」 「お前は、自分の気持ちに正直になればいい」 え。それはつまり、天利さんのことを好きでいてもいい、ってことなのかな。 「それとも、あの夜から気持ちが変わったか?」 「寂しい気持ちは変わらないです。好きだって気持ちも、消えてません」 「当たり前だ。一日や二日で消えるような気持ちだと困る。何のために俺があそこまでしたと思っている」 「……これからも、好きでいてもいいですか」 「誰かに許可を求めるようなことでもないだろう」 やれやれ、といった様子で天利さんが肩をすくめる。俺を許してくれた優しいこの人に、今度こそ真っ直ぐ向き合いたい。 俺は、潤んで滲んだ視界を擦りながら、「頑張ります」とだけ呟いた。
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