1人が本棚に入れています
本棚に追加
母の嘆きを聞いて、パーシィは夜の屋外へと飛び出した。
向かう先は海岸だ。そこにはきっと人魚がいてくれる。
触れられたくない、というのはそんなに変なことなのだろうか。触れたい、は最近ようやくわかっていた。あの人魚ならパーシィは触れたい。だが、パーシィは触れられたくないのだ。人魚だって、パーシィが触れようとすれば逃げる。触れられたくない…それはそんなに変なことなのだろうか。母をあれほど嘆かせるほど。
――人間であることすら、疑われるほど。
自分はなにもおかしくないのに。周りばかりがパーシィを訝しむ。否定する。
走って、走って、走って。
ふと、声を聞いて立ち止まる。ベスとケイの声だ。暗くてその姿は見えないが、どうやら真夜中のデートとしゃれこんでいるらしい。慌ててパーシィは岩間に隠れた。
「そういや知っているか、ベス。最近ここいらには人魚が出るらしい」
「人魚って、水族館の?」
「いやいや野生のさ。人魚の生態はまだ謎が多いって言うし、捕まえて水族館に売ればいい金になるんじゃないか?」
がんっと側頭部を殴られた気がした。売る、人魚を売る。あの人魚がいなくなってしまう。
パーシィはそろそろと岩間を離れると、ケイたちから姿を隠すようにして目的の岸辺を目指した。かくして彼女は岸辺に居て、岩に腰かけ月を眺めている。月光を浴び、全身の装飾品や虹色の鱗を輝かせる様はあまりにも幻想的だった。夜風に揺れる深海色の髪が、ふわり、ふわ、と揺れている。
パーシィはその美しさに見惚れた。水族館の人魚たちはこんなに美しくはない。水族館の彼ら彼女らは、暗い瞳でただ水槽の中をたゆたんでいるだけだ。
触れたい、と思った。あの肌に触れて、抱きしめて、彼女の存在を全身で感じたい。
人魚が振り返る。パーシィの姿を見て微笑んだ。本当に綺麗な、無邪気な笑みだった。
「おいベス、足元気をつけろよ」
「もうケイ、子供扱いしないで」
すぐ背後から声が聞こえた。人魚が見つかってしまう。人魚の方も声に気付いたのだろう、きょとん、と相変わらず警戒心のない顔で声のしたほうを向いた。
パーシィは…その横合いから思いっきり彼女の体を抱き込んで、岩間に伏せた。
腕の中で人魚が暴れる。なにかを叫んでいるようだが、人魚の声は人の耳には聞こえない。両手が、尾が、激しくパーシィを叩いて。
「我慢してくれ、君をあいつらかから隠さないといけないんだ」
小声で、パーシィは人魚に訴える。
ああ。――ああ、それにしてもっ。
なんと冷たく滑らかな肢体か。想像通り、人間の熱などない、海のような冷たさ、冷ややかさ。貼りつくことのない肌の感触。彼女の海の臭いを肺一杯に吸い込んで…。
――パーシィは天上の幸福を知った。
いつの間にか、パーシィに抵抗する力は弱まっている。次第、ぶすぶす、ぐじゅぐじゅ、粘着質な音が聞こえてきた。
背後の人の気配が消えて、ようやくパーシィが体を起こしたとき腕の中にあったのは…。
皮膚が焼けただれ、肉が崩れ落ちた人魚の姿。
――知っていたさ、知っていた。小さな子供だって知っている。
人魚の体に、人肌は熱すぎるのだという。だから、直接触れればそこから火傷して、皮膚が、肉が、崩れ落ちて死ぬのだという。
――人魚は人間に触れてはいけない。人間は人魚に触れてはいけない。
「あぁ…」
パーシィは感嘆と共に彼女の崩れた顔を撫でた。漏れ出た感情は歓喜と感謝。
「キミは本当に、ボクの友人だったんだね?」
――ありがとう、ボクのためのキミ。
最初のコメントを投稿しよう!