死んでいる彼に、花束なんて似合わない

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夜と朝の境目から隠された部屋で私は目を覚ました。空いている部屋を選ぶ時、知り合ったばかりの彼は「狭い部屋が嫌いなんだよ」と、迷うことなくぽっかりと空いていた一番高い部屋のパネルボタンを押した。  目を覚ますと、彼は私の隣で死んでいた。  これは深い眠りの比喩とかじゃなく、命が事切れているという意味で、実際に彼は死んでいる。  お酒のせいでかなり記憶が曖昧な部分はあるけれど、私が殺した可能性はないと断言しておきたい。  首に痣の痕もないし、鈍器で殴られたような痕もない。  生きている間に行ったのなら絶対に残るであろう「殺しの証拠」めいたものが彼の身体にない事を、彼の死に気付くと私は直ぐに確かめた。私はなんと偉いのだろう。  彼の死んでいるベッドに腰掛け、スマホの検索窓をタップすると『死後硬直 時間』『自然死 逮捕』『いきなり死んだ なぜ』『カップスープ わかめ』『死後 反応』、と並んでいる。  あ、と思いつくようにわかめスープが飲みたくなったのだ。突然とは常にそういうタイミングだからこそ突然なんだもの。  こういうのって腹上死にあたるのかしら。目を閉じたままの彼を眺めながらそう思ってみたものの、行為中ではないからきっと自然死になるのか。そうなると、男の名誉めいた死を私は彼に与えてあげられないのね、そうなのね。  どうしてこんな状況になったのかと言えば、バルがホテルに近かったのが一番の原因かと、そうなんじゃないかと、私は思うし、思いたい。  二番目は、元彼とその浮気相手。  私はクリスマス目前のある寒い夜に、二年半付き合っていた彼氏、知樹にフラれた。知樹の浮気相手は絶対地声ではない可愛らしいアニメ声のする二十四歳だった。私より五つも年下だった。情けないけど、相手の女の顔を私は知らない。  別れた夜、電話口<ひどいもんだ>の知樹は浮気相手の女と一緒にいて、「俺はこの子と共に生きていきます」なんて三文芝居もゲロを吐き出しそうな台詞を涙ながらに抜かしやがった。  かなり大事な話しのはずなのにまず対面じゃなくて電話だし、浮気相手は一緒になって電話の後ろで「生きていきます」なんて呟いていて合唱かよ、とムカついたけど私は私で 「ハーブを使ったおうちレシピ~香りのチカラで生まれるしあわせ~」  という如何にも平和ボケしたタイトルのレシピ本を震える指先でペラペラ捲りながら、知樹と新しい「彼女」の言い訳を延々聞かされてるうちに、ついにボロボロと泣き出してしまった。ハーブよりもマリファナが欲しくなった。  「怜奈、ごめんねごめんね」とまるで何処かの芸人みたいな謝罪の言葉を呪文のように知樹は繰り返し、私は何もかもが嫌になって電話を切った。着信拒否もした。何が嫌だって、こんな情けない私を知っている知樹と新しい「彼女」が許せなかった。  それから年末年始に掛け、私はとことん荒れた。繁忙期をガン無視して有休をもらい、THE・パワースポットの出雲大社へ行こうと思い立ち、一人旅へ出た。  しかし、私は行きの新幹線の中で風邪を引いている事に気付いてしまい、島根の辺鄙な町を散々さ迷った挙句発熱し、出雲大社を見る事もなく東京へ引き返したのだ。  大掃除の欠片すらしていなかった汚部屋で四日ぶりに熱から解放されると、私は身体の内から見えない力がぐんぐん漲ってくるのを感じた。  パワースポットへの願いが通じたのかと思ったが、それは違った。  性欲だった。  身体とは実におかしなもので、ムカついてムカついてどうしようもない事があると強く生きる方向へバイオリズムが変化するらしい。私は出雲で邪念のパワーを養ったのだった。  そして昨晩、私は散々目を逸らし続けて来た吹き出物だらけの肌をなるべく平らに整え、夜に似合うメイクを恨み節の抜け切ってない顔面に施した。それも、男に声を掛けられやすいよう意識して。家を出る直前になると、全身にペイントを施して狩りに向かうアフリカ部族の気持ちがなんとなく、理解出来る気がした。  そして、私はここで死んでる彼に出会った。   獲物を狩るハンターのように街を彷徨い、ホテル街に差し掛かる手前の暗がりに『暇で欲に飢えた都合の好い男』が集まりそうな洒落たバルを発見した。  カウンターに腰掛け、掛かって来いよこの野郎共。という気分で特に美味しくもないスモークサーモンのカルパッチョとワインを突いていると、サーモン四切れ目でハットを被り、顎ひげを蓄えたオシャレな彼が声を掛けて来た。 「ここは初めて? 隣、いいかな」 「どうぞ。前に来たことがあって、まだやってるかなぁって思って来てみたの。ここの雰囲気が好きなんだ」  男を探しに訪れたどこにでもありそうなバルのカウンターで、私はどこにでもありそうな嘘をつくと、彼はどこにでもいそうな人の良さそうな笑みを漏らした。少年期の終わりのようなその笑みを、可愛いなぁと私はふと、思ってしまった。 「俺、コージ。乾杯」 「私、怜奈」 「レナちゃんか、名前も可愛いんだね」  あー、良かったぁ。当たったわ、この男だいぶ慣れてるわ。こんな気の利くイイ男は今日一度きりで丁度良い。何度も求め求められる関係は、しばらくの間ご遠慮願いたかったから。  B to BなのかB to Cなのか、とにかく双方の需要と供給が一致して私達はバルを出た。  灯りに吸い寄せられる夏の虫のように私達は通りで一番目立つ大きなホテルへ入り、私達は寝ている間に飛んで火に入る夏の虫となっていたみたいで、起きた頃にはすっかり焼き尽くされていた。  これまでの経緯を軽く反芻していた私はベッドから立ち上がり、さすがに彼を死にっ放しにさせておく訳にもいかないので警察に連絡を入れる事にした。別に殺した訳ではなし、警察署に拘留されるような事はないだろう。  待て。そういえばこの彼、コージの苗字は何だったっけな。  身体は知っていても、必要がなかったから苗字は聞いていなかったはずだった。  死んでいる彼に両手を合わせ、ラックに掛けられていた彼のコートから財布を抜いた。免許証を取り出し、私は軽く溜息をついた。  『井上 芳弘』  まぁ、一時の関係ならそういう嘘も必要になることはあるよね。仕方ない。でもね、何かあった時の為に名前の嘘はつかない方がいいよ。例えばこういう時とかね……。  警察警察、と声に出して気を取り直す。すると、彼のスマホがピリリと鳴り出した。  電話かぁ、しかも長い。中々切れないな。仕事関係かな?どうしよう、伝えてあげた方がいいんだろうか、でも面倒臭いっちゃ面倒臭いなぁ……。  そんな風に思いながら鳴り止まない彼のスマホの画面に目を向ると、私は気分が青ざめ、「マジか」と呟いていた。  画面には『妻』というこの状況に有無を言わさぬ強烈な一文字が浮かんでいたのだ。  一番高いこの部屋を迷いもせずに選んだ時、彼はきっと家庭持ちではないだろうと踏んでいたのだ。  お金持ちならもっと違う場所で飲むだろうし、まさか奥さんがいるだなんて。せめて死ぬ前に言ってくれよ。そもそも言ってたらこんな場所でこんな朝、迎えてはないんだけど。  警察に連絡を入れたらどのみち奥さんとは確実に話さなくちゃならないんだろうし、三十路目前で死体遺棄犯にはなりたくないし……はぁ、出るしかないか。  芳弘。奥さんの前で、最期を迎えさせてあげられなくてごめんね。   でも、あんたの死はしっかり伝えさせてもらうよ。  この後どんな面倒な事になろうとも、絶句、追求、文句、罵詈雑言、を言われる覚悟で私は彼のスマホを手に取った。  人差し指を『応答』へとスライドさせ、スマホを耳に当てる。私よ、落ち着け、落ち着け。  私がもしもし、と話し出す前に奥さんは一方的に喋り始めた。ずいぶんと鼻に掛かった甘い声だ。 「ねぇ、ヨッシーもう仕事行っちゃったの? 家空けちゃっててごめんね、でも聞いて、絶対に怒らないで聞いて欲しいの。違うの。私ね、昨日の夕方、マチコから相談があるって呼び出されて……マチコね、旦那さんからDVずっと受けてて、子供もヒドイ事されてるみたいで、私ね、我慢出来なくなってマチコと一緒に隠れられるシェルターを探し回ってたの。夜中までずっと探してて、なんとか受け入れてくれるシェルターがあったから、それで私、ホッとしちゃってそのままシェルターで寝ちゃったの……この前の夜も、クリスマスの前の夜もね、実はマチコから相談されてて、それで家にいられなかったの。あんまり話が広まっちゃうとマチコが危ないから、それで言えなかっただけなの。でもね、私は」  奥さんと話しをして、私は一体どこまで冷静でいられるのか、とても不安だった。でも、奥さんの話をそこまで聞いて、私はついに冷静さを欠いてしまった。 「あんたの旦那に、花束はやらない」 「え、誰!?」  私は彼のスマホを力任せに壁に向かってブン投げた。スマホは壁にぶち当り、ウォーターサーバーの裏へと消えてった。  間髪入れずにフロントに連絡して事情を話し、その後直ぐに警察に電話をした。  あのアニメ声、そして、あの喋り方。  この前の夜も一緒だったんだ、へぇ。あのクリスマスの前の夜は、そうでしょうね。  彼に、花束はやらない。  死んでいる彼に、花束なんて似合わない。  悔しくて悔しくて、頭に来て、彼の傍に立ったまま私はやり切れなくなって二人分の涙を流した。  死んでいる彼がたまらなく愛しくなってきて、偶然を憎しみながら、横たわる冷たい身体を力いっぱいに抱き締めた。
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