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雪上に置かれたこたつに入り、くつろいだ様子でみかんの皮を剥く人物を見て、辻井可織は目を丸くした。
厚手の布団で身を覆った人物は、緩やかな仕草でみかんを一房ちぎった。暖かそうな光景だと可織は思い込みかけたが、「そんなはずあるか」と理性から抗議を受けて我に返った。
こたつは今日になって忽然と、可織の住むアパートの裏庭に現れた。テーブルも布団も電源ケーブルも全て白く、周囲に積もった雪と同じ色合いをしている。机上の丸盆とみかんが多少の彩りを添えてはいるが、全体としては色味に乏しく、奇妙なほど雪景色に適応していた。
本物じゃなくて雪像だ、と可織ははっと気がついた。冷静になってみれば、屋根も電源もない寒空の下にこたつを置くとは考え難い。実物と遜色ない緻密な造形と、こたつに入る人物の泰然とした振る舞いによって、認識が混乱していたようだった。
「あの、小瀬村さん」
可織はおずおずと、さも暖を取っているかのように雪中で澄ましている人物に声をかけた。みかんを口元へ運ぶ手を止め、人物は可織の方へ顔を向けた。吊り気味の鋭い目つきは、隣室の住人である小瀬村千鶴のものに相違なかった。
「どうも」
千鶴は淡白な調子で素っ気ない返事を寄越した。感情の映らない瞳で可織をじっと見ながら、指でみかんの房をくるくると回転させている。
「ええと……何をされてるんですか?」
「撮影です」
千鶴は摘まんだみかんの先端で、こたつの雪像から少し離れた位置を示した。雪の積もる地面に三脚が設置され、上部にスマートフォンが取り付けられていた。
可織が「動画を撮ってるんですか」と続けようと「ど」まで口にした瞬間、千鶴は興味を失ったように視線を逸らした。行き場を失った「う画を撮ってるんですか」は、喉の奥に留まったまましぼんで消えた。
舌が凍ったように言葉が継げず、可織はがくりと肩を落とした。手元のみかんを眺める千鶴から目を逸らし、落ち着きなく両手をこすり合わせる。着けていた革製の手袋がギイギイと妖怪のいびきのような音を立てた。
ハア。ハアア。ハーアアー。気まずい心地を絞り出すように、可織は数パターンの嘆息を吐いた。いつ遭遇しても千鶴は仏頂面で口数も少なく、まともに会話が成り立ったためしがない。引っ越しの挨拶として袋にぎゅうぎゅう詰めの蕎麦粉を持ってきてくれた当初は、年恰好も近いし親しくなれるかもと期待を抱いたが、ひと月経ってそろそろ諦念に至りつつあった。
もう部屋に帰ろう。帰って蕎麦粉クッキー作ろう。
気温ほどに寒々しい気分のまま踵を返そうとした時、可織は「辻井さん」と自分を呼ぶ声を聞いた。
「へ、はいっ?」
可織は素っ頓狂な声を上げ、振り向きかけた体をぐるりと戻した。
摘まんでいたみかんを口に入れ、千鶴は片手を掲げて指先をふらふらと揺らした。動きが小さく判別しづらいが、可織に向かって手招きをしているようだった。ただ寒さに身を震わせている可能性もないではないが、可織は自分に都合よく解釈して、小走りに真っ白いこたつへ近づいていった。
寄ってきた可織を無感動な目つきで一瞥して、千鶴はこたつの一画を手のひらで示した。雪の布団がめくれた形で固まっていて、こたつ内に脚を入れられるようになっている。座る位置には座布団の代わりとばかりに、正方形に畳まれたビニールシートが敷いてあった。
「入っていきませんか」
千鶴が抑揚に乏しい声で言った。
反射的に頷きそうになる寸前で可織は首の動きを止めた。千鶴が平然としているせいで錯覚しそうになるが、眼前にあるのは雪であって暖房器具ではない。馬鹿な真似はやめろと理性的な思考は述べていた。
可織はしかし、脳裏に響く警鐘を無視してビニールシートのある側に回り込んだ。千鶴と交流できるかもしれないという希望と、雪でこたつを作って自ら入る行為の意図を知りたいという好奇心が、合理的判断を神経細胞の彼方へ放り投げていた。
「お邪魔します」
ごくと唾を飲み込み、可織はビニールシートに腰を下ろした。布団に膝をぶつけて崩さないよう、そうっとテーブル下へ脚を差し入れる。
可織はカチカチと歯を鳴らし、自分の軽挙をすぐさま後悔し始めた。布団やテーブルにまといつく冷気が、吹きつける寒風の厳しさを無闇に引き立てている。少しでも寒気を防ごうと背を丸めると、奇しくも本物のこたつに入る体勢とほとんど一致した。
千鶴が「よければどうぞ」と盆上のみかんを手で示した。間近でよく見てみると、どれも表面が白い霜に覆われている。
「れ、冷凍みかん?」
「美味ですよ」
千鶴は表情も変えず手元の冷凍みかんを食べている。見ているだけで胃腸が冷える気分になり、可織は意味もなく腹周りを丹念にさすった。
「あの、どうしてこんなことを? こんなに寒いのに……」
三脚のある方を横目で見ながら可織は尋ねた。どうしてと問いつつ、既に可織は一つの推測に確信を抱いていた。
小瀬村さんはきっと、芸術的映像作品を撮っているに違いない。
千鶴の行動は不合理に見えるが、芸術を生み出す過程と考えれば合点がいく。暖かなこたつ周りの風景を、雪積もる寒中で再現する行為によって、何らかの表現を試みているのだろう。
一時寒さも忘れ、可織は身を乗り出し返事を待った。ふと強い風が吹き抜け、途端に寒さを思い出して身を縮めた。
鋭く冷たい眼差しを真っ直ぐ可織に向けて、千鶴はゆっくりと口を開いた。
「珍妙な絵面が撮れそうだと思って」
「なるほど、珍妙な……えっ?」
「『雪で作ったこたつで暖まろうとする』って構図、面白くありませんか。本末転倒という感じで」
千鶴は平坦な口調で言って、食べかけの冷凍みかんをまとめて口へ放り込んだ。リスのように頬を膨らませ、そのまま丸盆から別のみかんを手に取る。澱みない手つきで皮を剥き、ぷくぷくの頬へ更に一房二房と追加していた。
可織はぽかんと顎を落とし、呆然と千鶴の食いしん坊ぶりを眺めた。鋭利で冷厳なイメージが頭の中でさらさらと解けていく。「そんなはずあるか」と理性的思考は訴えたが、今回に限っては間違った主張のようだった。
放っておいた炭酸飲料のように気の抜けた心地になり、可織は「ふはっ」と笑い混じりの吐息を漏らした。
「お、面白いからって、自分でやらなくても、へははっ」
「そうですね。思ったより寒くて後悔しています」
寒そうには見えない淡々とした表情で千鶴は言った。顔に出ないだけなんだ、と可織は納得する。詰め込んだみかんが頬に出てはいたが。
「もう出ましょうか」
「あ、はい、ひひっ」
微振動を続ける腹を押さえながら、可織は雪の布団から身を離した。
ぐっと伸びをすると、意識せず体が震えて「いっきし」とくしゃみが出た。笑いの名残が吹き飛び、代わりに羞恥が頬を熱くする。ぶんと頭を振って千鶴の様子を窺うと、座布団代わりのビニールシートを片づける最中で、可織には注意を払っていなかった。
ハアアと白い息を吐き、可織はこたつの形をした雪像に目をやった。改めて見ても実物を思わせる精巧な出来で、可織の自室にあるこたつとよく似た形状をしている。
次はうちのこたつで暖まりませんか、って提案してみようかな。
冷凍みかんの乗った盆を運ぶ千鶴をちらりと見て、可織は独り頷いた。つい先刻までの気後れは消え、親しみと可笑しさが心中に満ちていた。自信を込めてぐっと拳を握ると、革手袋がギャッと妖怪の雄叫びのような音を立てた。
「小瀬村さん、よかったら――」
「次はキャンプファイヤーかな」
ぼそりと呟く声が聞こえ、可織はぎょっと目を見開いた。千鶴は雪ごたつの前に立ち、片手に大きなシャベルを持っていた。もう一方の手は軽く握り込み、指先で一房の冷凍みかんを摘まんでいる。
「えっ、あの、まだ何かやるんですか」
可織が口早に尋ねると、千鶴は涼しい顔で首肯した。
「雪で焚き火を作ります」
「それはその……どういう理由で?」
「雪で作った焚き火の周りでフォークダンスを踊ったら、おかしな絵面になりそうと思って」
可織は再びぽかんと顎を落とした。開いた大口の前に、千鶴がみかんを差し出した。
全身から力が抜け、呆れとも感嘆ともつかない笑みがこぼれる。目の前の冷凍みかんに齧りつくと、冷たさと甘酸っぱさが舌の上に広がっていった。
「私も手伝っていいですか」
くすくすと吐息を漏らしながら可織は言った。千鶴は「助かります」と頷き、シャベルを持っていない方の腕を伸ばした。
「辻井さん。私とフォークダンスを踊ってください」
映画の一場面のように流麗な仕草で、千鶴は手のひらを差し出した。
手の上にはみかんの皮が乗っていた。
数瞬の後、裏庭に甲高い笑い声が鳴り響いた。
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