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俺はため息を吐いて朧に合図を送った。朧が見越し入道に飛び掛かり牙を立てると、さっきの八尺様同様にぱさりと砂のように崩れて消えた。
「消え、た……」
はぁはぁと汗びっしょりになって、男はまだ空を見上げている。
「うん、消えるよ。だって幻覚だもん。ほら、お兄さん深呼吸してみて。すー、はー、すー、はー」
男は俺の声に合わせて素直に深呼吸を始める。
「ほーら、もう顔色が良くなってきた。怖い怖いと思っているから、そんなものを見ちゃうんだよ」
「でも、あんなにリアルに……」
「お兄さんはさ、ああいうものをよく見るの?」
「いえ、まさか! あんなの……あんなのは初めてです」
「そっかぁ。じゃぁ、もしかしてこの場所とお兄さんの相性がいいのかな」
「相性、ですか?」
「すいません。俺が怖がらせるようなことを言ったからですよね」
友哉が大雅の背中に片手を添えて、そろそろと近づいて来る。
式狼の姿が見えない男からは、ゆっくりだがひとりで歩いているように見えるだろう。
「初めまして、便利屋をしている倉橋友哉です。ええと、大家さんですか」
「え、いえ、あの」
男は、やっと自分が何をしに来たのかを思い出したかのように立ち上がろうとした。だが、腰が抜けたようで、またぺたりとへたり込むので、仕方なく腕をつかんで起こしてやった。
「あ、ありがとうございます」
男はぺこりと頭を下げてから友哉に向き直った。
「大家の柴田さんはご高齢なので、代理で来ました。ひまわり不動産の山川と申します」
礼儀正しく名刺を差し出したが、友哉には見えていないので俺が横から受け取った。
「友哉、名刺もらったよ」
「こっちにくれるか」
「うん」
友哉は名刺を受け取ると、スマートフォンを出して操作し始める。見えなくても画面に顔を向けるのは、音をちゃんと聞きとろうとしているからだ。
『リンリン、カメラ、オーディオブック、メモ、カレンダー、お天気情報……』
友哉の細い指が画面をすべり、指で触れたところのアプリが早口の音声で読み上げられる。友哉は『マイスキャン』というアプリの所で画面をタタッと叩いた。
『対象を撮影してください』
という音声の後にピーピーと小さな電子音が鳴り始める。名刺をスマートフォンの前にかざすとピーピー音が高くなり、友哉は画面に触れて器用に撮影した。
『読み上げ……保存……保存して読み上げ』
友哉が画面上を指でなぞり、最後の項目でダブルタップする。
『保存して読み上げます』
とスマートフォンが名刺を読み上げ始めた。
『ひまわり不動産、営業・管理・お客様対応係、山川進、電話090……』
山川は感心したように友哉の顔と指先を見つめていたが、何かに驚いたようにハッとして、さらに食い入るように友哉の全身に視線を巡らせ始めた。
歪な形の右耳や首元の目立つ傷のほかにも、手の甲や白い腕にいくつも薄い傷跡が見える。その痩せた体の痛々しさに山川も気付いたようだった。
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