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嘘だと叫んで逃げ出したかった。
理解することを心が拒んだ。
それなのに、じっと目を見つめられると頭がぽうっとしてしまって拒否できなかった。
「ほら、呼んでみなさいな、お母さんって」
「おかあさん」
「ああ、いい響き。いい子ね、あきらちゃん」
友哉に取り憑いたそいつがバスタブでザバリと立ち上がった。白い肌には狼の噛み跡がいくつも残っている。俺を庇って出来たそれらの傷は、友哉が俺を愛しているという証拠の傷なのに、今、その体を魔物が勝手に使っている。
やめろ、出ていけと、叫びたいのに声にならない。
友哉に取り憑いたそいつは水を滴らせながら、タイルへ足を伸ばす。すかさず影がバスタオルでその体を包み、優しく拭き始めた。得体の知れないものを友哉の体に触れさせたくなんかないのに、俺は動けなかった。
傅かれるのに慣れた様子で、そいつは開いた窓の方へ水音を立てて歩き始める。
「ああ、長かったわ……。やっと、大賀見家を根絶やしにして私の『巣』を取り戻せる」
濡れた足を影に拭かせて開いたフランス窓から部屋に戻り、友哉の姿をしたそいつがするりと両手を広げた。後ろからついて行った影が、紺地に三つ又の葉が描かれた派手なガウンを細い体に着せていく。
「巣って……」
部屋に戻ろうとすると、影のひとりが俺の足から濡れた靴と靴下を取った。
「一乃峰、二乃峰、三乃峰は霊山なの。あやかしにとっては棲みやすくて力の満ちる場所。山からその麓までこの一帯すべてがもともとは狐の、いいえ私の土地だったのよ」
友哉に取り憑いたそいつが臙脂色のソファに腰かけ、俺の手を引いて座らせた。
「余所から入って来た大賀見戌孝に眷属を皆殺しにされ、三乃峰を追われてから何年経ったのかしら。四百年、いいえ五百年は経ったわね。狼の臭いがきつすぎて長い間この土地に近寄ることすら叶わなかった身だけれど、間抜けな道孝と可愛いあきらちゃんのおかげで、やっと……やっと……」
恍惚の表情で、そいつが全身をぶるぶると震わせる。
友哉の顔がいやらしく歪んだ。
ものすごく嫌なのに、俺の頭はぼんやりとしてしまって嫌だという言葉が言えない。
「わからない……」
「あら、なんで泣きそうなの? 簡単なことじゃない。私は大賀見に『巣』を奪われた。そして数百年越しにやっと『巣』を取り戻したの。どうやったか知りたい? 知りたいわよね」
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