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空は美しいか
片田舎の商店街は昼間だというのに閑散としていた。連日に渡って続く酷暑が住民をエアコンと恋患う事を強要し、当然のように自宅へと閉じ込めてしまう。
大多数が外出を忌避する中、少女は1人ベンチに腰を降ろしていた。その眼は鋭く、どこか苦々しい色を帯びている。
「ママったら、いつまでお喋りしてんの」
少し離れた所に彼女の母は居たのだが、娘の方など見ていない。趣味仲間とバッタリ出くわした為に、世間話に華を咲かしているのだ。
取り残された娘はというと、愚痴を漏らし、気散じにとアイスのカップを呷って氷を頬張る。口内に優しい甘みと、心地よい冷えを感じるのだが、彼女の機嫌を直すには至らない。
「もう、どっか遊びに行っちゃおうかな」
チラリと辺りに眼をやると、そこは陽炎ゆらめく炎天下。ここだけはアーケードのお陰で地獄を免れているものの、うかつに出歩けば後悔しそうである。仕方なく、終わりの見えない長話の終焉を待つ事にした。
そうして手元のカップが空になったころ、不意に優しげな声をかけられた。
「お嬢ちゃん。隣は空いているかね?」
現れたのは、しわがれた声をした杖突きの老人だった。特に不審な点のない、没個性の老紳士である。少女がウンと頷くと、彼は震える手で帽子を掲げて礼を言い、緩やかに腰を降ろした。
僅かな気不味さは漂うものの、不快な程ではない。少女は空のカップを手元で弄び、時間を潰していた所、空から響き渡る轟音に顔を持ち上げた。そうして見えたのは白い筋の雲。青空で一直線に描かれる様は、少女に微笑みをもたらした。
「お嬢ちゃん。飛行機が好きかね」
問いかけは優しげだ。その言葉に対し、瞳を輝かせた少女は元気いっぱいの返事をした。
「うん、大好き!」
「そうかい、それは良いねぇ」
気持ちが通じたとあって、少女は満面の笑みを浮かべる。そしてお得意のフレーズを誇らしげに披露してみせた。
「アテンションプリーズ、アテンションプリーズ。快適な空の旅をおたのしみください!」
「ほっほっほ。詳しいねぇ、まるで学士さんみたいじゃあないか」
「こんなのトーゼンだわ。アタシね、大きくなったらパイロットになるの。色々とベンキョーしてるのよ!」
「それは立派だねぇ。頑張るんだよ」
「おじいさんもヒコーキ好きなの?」
「そうだねぇ、ワシは昔、飛行機乗りだったよ」
「ほんとに!? ねぇ、空は青くてキレイなの? すっごい広くておっきいの?」
老紳士は、少女の真っ直ぐな想いから眼を反らし、遠くの空を見た。その瞳はにわかに鋭くなり、シワだらけの口元も僅かに歪む。忘れる事ない光景を浮かべるときの癖である。ジッと眺めていると、若かりし頃の記憶が昨日の事の様に思い返された。
(果たして、空は綺麗だったか)
昼過ぎに飛び立った一団が快晴の空を疾走していく。隊列を組んで飛ぶ僚機。練度の低さが見て取れる。練習機とまでは言わないが、型落ちの旧式で、とても最新鋭の敵と渡り合えたものではない。自身の役目は監視と戦果報告。いっその事、共に散ってしまえばという気持ちは、腹の奥へとしまい込んだ。
地平線はどこまでも続いていた。ただひたすらに、このまま青い空ばかり追いかけたいとすら思えた。
だが死んだ。みんな死んだ。日暮れ、海に浮かぶ山のような怪物に殺された。あちこちの山々が一斉に火を吹き、轟音を響かせ、味方が次々と落ちていく。せめて山の腹くらいはえぐってやろうと挑む者も、寸前で力尽き、高い水柱を打ち上げただけで終わる。
(なぜ、おめおめと生き残ってしまったのだろう)
いずれ自分にも死するべき時は来る。それまで命を預けているだけに過ぎない。そう言い聞かせつつ、来る日も来る日も無謀なる戦場を眺め続けた。だが、その日は遂に訪れなかった。戦争は終わりを告げ、今度は地面から空を見上げる日々がやってきた。混迷期、高度成長期と様々な時代を生き抜いてきたが、一度として心が晴れた試しはない。
(果たして空は美しいのか、否か)
透明に晴れ渡る空を見ていると胸が苦しくなる。自分の心の重たさを実感するからだ。嵐で荒れ狂う空を見れば腹立たしくなる。辺り構わずさらけ出す様に嫉妬してしまうからだ。
晴天も曇天も受け入れられないのは、空に原因があるのだろうか。老紳士は、そうだと言い切ってしまうような頑迷さを持ち合わせていなかった。
「汚れているのだとしたら、それは人の心の方よ」
「ココロがどうかしたの?」
汚れのない声に彼はハッとさせられた。そして目尻を下げ、ことさら柔らかな声で返事をした。
「いや済まないね、つまらん事を言ってしまって。空は綺麗だよ。雄大で、透き通っていて、ずっと追いかけたくなる程にね」
「やっぱりキレイよね! おじいさんも空が好き?」
「そうだねぇ、そうなのかもしれないねぇ」
「じゃあね、アタシがパイロットになったら、お客さんとして乗せてあげるね。ファーストでビジネスな席をとっとくから!」
「ハッハッハ。ありがたいがね、ワシはもうこんな身体だ。今さら飛行機に乗ろうだなんて思わないよ」
老紳士は曲がりきった背中を見せつけ、力なく微笑んだ。だが、老いに対する労わりを知らない少女は不満気になる。
「そう怒らないでおくれ。お嬢ちゃんが飛行機乗りになったら、こうして見守っていてあげよう。空を安全に飛べますようにって、祈ろうじゃないか」
「そんなのつまんないもん。一緒に飛んだ方が楽しいもん」
「ワシはもう一生分は飛んだからねぇ。もう十分なんだよ」
少女は口を尖らせつつ空を見た。老紳士も同じ方を見る。2人の瞳に映る光景は同じものであったか、当事者でさえも分からない。
「お嬢ちゃん、ひとつだけ約束してくれんか」
「なぁに?」
「飛行機は、みんなの為に飛ばしておくれ。決して誰かを悲しませるようじゃいけない。幸せだけを運び続けて欲しいんだ」
「そんなの当たり前よ。今日はシンガポール、明日はサイパンに寄ってニューヨーク。世界中の人たちをいっぱい、いーーっぱい笑顔にするんだから!」
「うんうん、そうかい。素敵だねぇ」
「アテンションプリーズ。まもなくグアムに到着します。おりたい人はブザーを押してください、ドア開きまぁす」
気を良くした少女は、それらしい口調でお得意のセリフを叫んだ。だが言うが早いか、彼女の母親が戻ろうとする姿を見た。
「ママが帰ってくる。バイバイ、おじいちゃん!」
少女はそのまま母親の元へ駆け寄ると、当初の不機嫌など忘れたかのように飛びついた。
「お待たせ。いい子にしてくれてありがとうね」
「平気よ。あのね、知らないおじいちゃんとね、お喋りしてたんだぁ」
「えっ。お爺さん?」
母親は改めてベンチの方を見たが、その視線は定まらずに宙を泳ぐばかり。それからすぐに踵(きびす)を返した。
「怖い事言わないで。さぁ行きましょう」
少女は足早に立ち去ろうとする母親に手を引かれていく。そうして立ち去る間際に振り返ると、その視線の先には、今も優しく微笑む老紳士の姿があった。
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