呼び水

1/1
前へ
/23ページ
次へ

呼び水

思わず引き込まれるH.A.N.Sの足を掴み、水泡に飛び込んでしまったが、息が保つかどうか分からなかった。うまく目が開けない。鮫に振り回されるなか、グラウベンの声も徐々に途切れはじめ、遂には何の音も聞こえなくなった。 危機感を覚えた私は、ジャケットの内ポケットから護身用に持っていた電気銃を手探りで取り出す。H.A.N.Sは無事だろうか。覚悟を決めて目を開くと、ぼんやり輪郭が浮かび上がる。H.A.N.Sはまだ動いていた。しかし、強く噛まれた細い右腕は故障しているようで、だらんと垂らされている。右腕が無事ならレーザーで鮫を断ち切ることができただろうが、今は私のヴィンテージ品の電気銃をあてにするしかない。元はと言えば私の不用心が原因なのだから。 H.A.N.Sの足から体にしがみつき直すと、横に張り付いた鮫に狙いを定める。すると、この賢い鮫はH.A.N.Sを口から離すと、勢いで水中に放り出された私の方を狙ってきたのだ!口の端から泡が漏れる中、私は急いで引き金を引く。しかし、充填されるのが遅く、いつ発砲されるか分からなかった! (ああ、愛しのグラウベン!そして育てて下さったリデンブロック教授、どうかお元気で!) 私が心の中で叫んだ時、H.A.N.Sが左腕を伸ばし間一髪のところで回避した。彼は私を抱き寄せると、電気銃に左中指を差し込み、鮫に銃口を向けるのを手伝った。 息が苦しい。 鮫が再びこちらへまっすぐ飛び出すのを薄目で見ていた。今だ!引き金を再び引くと、激しい電気の弾が鮫に撃ち込まれる。H.A.N.Sの電力で充填されたらしい。直後、強い衝撃波が全身を包む。息ができない苦しさと衝撃波に、私は耐え切れなかった。 酸素が私の肺を満たす。私は目を覚ました。金髪で鷲鼻のゲルマン人が私の口に何かを当てている。ペストマスクだ。すると、彼は。 「叔父さん……?」 私がマスク越しに弱々しく声を出すと、彼は頷いた。上体を起こし、酸素を供給してくれるペストマスクで深く呼吸をした。左を見ると、H.A.N.Sが右腕の自己修理をしている。 「無事で良かった、H.A.N.S」 彼はこちらを見ると、「キートス トデッラ パルヨン」と珍しく長い単語を並べた。意味は分からなかったが、彼は左手で私の両手を取り、硬く握った。良いことを言われているのは理解できた。その様子を遠くから見ていた店主は、胸を撫で下ろしていた。 「それで、グラウベンとの通信はどうなりましたか?」 「ああ、それはな……」と、叔父が口を開いた時、その口から鮮血が吐き出された。私は瞬時に気が付き、急いでペストマスクを叔父に着けた。このマスクはただの顔を隠すための飾りではなかった。医療用の改造がされている特別なマスクだったのだ。食事以外にずらすことがないのも、常に急いでいるのも、惑星ヨウスドで新鮮な空気を深く吸い込むことが無かったのも、今なら理解できる。 そう、叔父は病に侵されているらしい。 (なんてことだ。その貴重なマスクを私に使ってくれるなんて!) どうやら私は、オットー=リデンブロックという男を間違って理解していたらしい。私がどう声をかけようか悩んでいると、叔父は私の背中を強く叩いた。 「私なら平気だ。先ほどの続きなんだが、ホログラムキネトスコープのホログラム部分が壊れたようでな」 H.A.N.Sは左手を開くと、壊れたホログラムキネトスコープを見せた。床に垂れた血を拭くH.A.N.Sは、何かに気付いたかのように遮光レンズを開く。 「アルネ=サクヌッセンム」 彼は確かにそう言った。 「アルネ=サクヌッセンム……そう、そうだ、アルネと言えば彼しかいないじゃないか!」 叔父に続いて、私も思い出す。「ああ!あの錬金術師の!」 何故こんなにも有名な人の名を忘れていたのだろう。 アルネ=サクヌッセンムは地球歴十六世紀の錬金術師だ。彼は天上界、マクロと地上界、ミクロの間に存在する宇宙を骸(ムクロ)と名付け、その骸に魂が集まると一つの生物となり、マクロとミクロを繋ぐ、という宇宙観を持っていた。無から人間を創り出す研究もしていたらしく、神秘思想が強かった。 しかし、何故我々は忘れていたのだろう。そして、何故H.A.N.Sはその名を口にしたのか。先ほどまで倒れていた私には理解できなかった。 服はH.A.N.Sに乾かしてもらったが、寒かったうえ空腹だったので、店主にお詫びとしてまかないをいただいた。 コスモの種を米のように器に敷き、アクアサーモンやテルナの赤身をのせた海鮮丼だ。つやつやのコスモの種に酢が絡められている。脂がネオンで輝くアクアサーモンやテルナの甘みの強さと、酢コスモのさっぱりとした味、そして後からかけた旨味溢れる醤油が口内で混ざり合い、とても美味しい。叔父は次の目的地について考えているようで、あまり味を噛み締めてはいないようだった。 H.A.N.Sはというと、直した右腕でホログラムキネトスコープをなんとか修理しようと探っていた。 私は海鮮丼をかきこむと「次の目的地はどこですか?」と、叔父に尋ねた。
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加