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命の水
地球の中心に、ぽっかりと空と海、島が広がる不思議な世界。そばに流れている川を覗くと、地球古来の魚が泳いでいる。サラトガだろうか。H.A.N.Sがその魚を捕まえた。久々にビスケット以外のものが食べられそうだ。
ノーティラスから降ろしたキューブに入っていたスパイスとハーブをサラトガにかけ、じっくり焼く。内臓を取る際に強烈な臭みが出たが、スパイスの効果だろうか。味見をした時にはあまり気にならなかった。ふわふわと柔らかな身が口内で溶け、美味しい。
「アクセル」
H.A.N.Sが遮光レンズを細め、微笑んだ。私は、味見をしすぎていたことに気付いた。空腹のままで倒れていたのだから仕方がない。彼はそんな口調で私の名を呼んだ。
H.A.N.Sの記憶はうまく解けたのだろうか。彼の声は正気を帯び、まるで人間のような語り口調に変わっていた。その声は、やはり我が父ハンスのものである。H.A.N.Sは私の父なのだろうか。姿形は違えども、よもや。
「おお、サラトガではないか。美味そうだ」
薪を拾っていた叔父が香りにつられて戻ってきた。私は鉄分豊富な命の水と川の水を混ぜ、スパイスとハーブ、干し肉のスープを作る。味見をせずとも、美味いことは香りで分かった。ヨースも舌なめずりをする。
腹ごしらえは、如何なる時でも重要である。腹が減っては戦はできぬ。私たちは地底世界の不思議な日の下で食事を始めた。腹いっぱいに食べられることが幸せであり、これ以上ない喜びであると、この旅を通じて理解できた。一口も無駄にせず明日を生きる活力にしよう。
「それで、先程の話に戻るのだが」と、叔父がスープをすすりながら言った。「『慟哭の間』には何百もの尖った水晶が上からも下からも生えていた。そして、人間のものらしい骨がこれまた何百も落ちていた。まるで墓場じゃないか。H.A.N.S、知っていることを話してくれ」
慟哭。それは悲しみのあまり声を上げて泣くこと。私が見た幻覚と、墓場のような本物の光景に関係があるのだろうか。H.A.N.Sは星合語で話す。
「『慟哭の間』を無事に抜けられた生物はいない。人間は、あの場で前後の記憶が書き換えられる」
「つまり、叔父さんの記憶も書き換えられているのかい?」
H.A.N.Sは静かに頷いた。
「アクセル。お前はあの場で何を見た」と、マスクのレンズの向こうで叔父の瞳が鈍く輝く。
「私は、突然皆が消えて、手付かずの自然の道に取り残され……気を失いました」
一体誰の記憶が正しいのだろう。ヨースは叔父とH.A.N.Sのそばにいたらしいので、私の記憶が間違っているのだろうか。
「巨大水晶は見ていないのかね?」という叔父の問いに、私は「はい。水晶は一欠片も見ていません」と答えた。叔父は頭を捻る。しばらくぶつぶつと呟いていたが、突然唸り声を上げると、スープを飲み干し横になった。
私はH.A.N.Sと目を合わせた。我が父、ハンスとの記憶が蘇ったことも話すべきか。叔父を起こそうとすると、H.A.N.Sが声をかける。
「アクセル。何か変わったことを前後にしなかったかい?」
私はスープを一口すすり、思い出そうとした。「そういえば!」とスープを見つめる。命の水だ!命の水と呼んでいる、私の水筒に注いだ水を飲んだのだ!その水を飲んだのは私だけだった。
「なるほど。もしやこの水には幻覚を見せる作用があるのか?」
もし本当に幻覚作用があるならば、危ない水じゃないか!
(叔父もヨースも飲んでしまったぞ)と、私は冷や汗をかいた。H.A.N.Sは命の水に左手の人差し指を浸けると、しばらく考えるように固まった。私も叔父も、ヨースも息を飲む。
「カルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウム、鉄、マンガン、二酸化炭素、ケイ酸……その他に幻覚作用のあるものは検出されていない」
私は胸をなでおろす。なんだ、私が狂った訳ではないのか。
「つまり、ただの水ということか」と、叔父が水面を見つめた。その言葉を聞くと、H.A.N.Sは付け加えた。
「鉄が一般の水より多い。リデンブロック教授やアクセル、ヨースは鉄分が地球生物の数値より不足していた」
鉄分の不足、そこに手がかりがありそうだ。
鉄は地球由来のものに多く含まれている。人間やその家畜、地球を脱出した生物の子孫など。その他の星生物には鉄の代わりにオリカルクムという似た性質のものが含まれている。宇宙船や建物にも使われているのだが、鉱物は地球の名残なのか『オリカルクム』とは呼ばず、『鉄』と呼んでいる。
私は仮説を立てた。「地球に関する記憶。その記憶の要が『鉄』ではないのでしょうか」と。H.A.N.Sと叔父は、ううむと唸った。そんな非科学的なことがあるのだろうか、と反論されることは目に見えていた。しかし、叔父は頷く。
「そうだな。今手元にある情報で考えると、アクセルの考えはあり得ることになる。さあ、新たな情報を集めに行こうじゃないか」
(情報を集めに行く?)と、私が眉をひそめる。早く食事を済ませろと催促されたので、(やれやれ)と、急いで冷めたサラトガに食らいついた。
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