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解けぬ記憶
叔父であるリデンブロック教授がオートマタH.A.N.Sと会話という名の格闘をしている間に、私はスープだけでなく、家畜であるムウのハムとケグの実の半熟オムレツを作り、サローンの頬肉を焼き、デザートのシュラムプラムの砂糖煮を作っていたときのことである。
「ただいま。あら、お父様はもう帰られていたのね」と、教授の娘であるグラウベンが学校から帰ってきたのだ。
この惑星唯一の学校、クシュク校は、七歳から二十歳までの学び舎として親しまれている。私は八年ほど前に卒業した。ただ、この小さな惑星でも唯一であること、つまり遠いことに変わりはない。そのため、お金のかけられない私は毎日この家から通っていたのだが、一人娘であるグラウベンは学校の寮に泊まっているのがほとんどなのだ。私は彼女を愛している。彼女も私を大切に思っていてくれているため、世間の平等だの、批判だのは全く気にならなかった。というよりも、幼い頃は毎日彼女に会うために帰宅するのが何よりの楽しみだった。
とにかく、慎ましく愛しあっている私たちは久々の再会を静かに祝っていたのだ。
「外は寒くなかったかい?温かいスープを大目に作ったんだ。なんだか、グラウベンが帰ってくるような気がして」
すると彼女は小さく笑い、「お腹が空いていたんでしょう、アクセル?」と、真実を見抜いた。彼女の見抜く力に私の嘘は絶対効かないのだ。
グラウベンは二階を見上げると、「お父様はどなたとお話しなのかしら。お客様は珍しいわね」と言う。
「オートマタだよ。へヴェリウスさんのところで買ったらしい。グラウベンも見てくるかい?」
「いいえ。私はアクセルと一緒にシュラムプラムの砂糖煮を作るわ」
そう言うと、彼女は私の左手を優しく握った。美しい蒼い瞳はアクアマリンのように煌めいている。ああ、素敵な女性だ、と私は何度思ったことだろう。 うっとりとしていたとき、階段から大きな何かが落ちる音がした。はっと気がつき、握っていた手を隠すと階段まですっ飛んだ。
「まあ、彼がオートマタなのね」
階段に見事着地していたのは、オートマタのH.A.N.Sだった。無いと思っていた腕は細く、そこには叔父のリデンブロック教授が抱えられていた。一体何があったのだろう。叔父に手を差し出すと、彼は突然大声で笑い始めた。グラウベンと一緒に目を丸くすると、「いやあ、驚いた!H.A.N.Sがミクリオに驚いてな。彼の反応は遅い訳ではないようだぞ!」と、叔父が興奮していた。
ミクリオとは、小型のネズミだ。イエネコに駆除されないように進化を遂げたミクリオは、とてもすばしっこく、擬態能力を持つ。ただ、ウイルスを媒介するのであまり好かれていないのだ。我々の家はとても綺麗とは言えないので、たまに彼らがやってくる。そのため私は慣れているのだが、H.A.N.Sは初めて見たので驚いたのであろう。
「反応に問題がないのであれば、発声回路が古いのかもしれんな。それとも、話したがらないだけなのか……」
叔父がいつものようにぶつぶつと呟き始めた。呟き始めると止まらないのが彼なのである。
「お父様、お食事にしましょう?せっかくアクセルが作ってくれたのよ。食べなきゃ損だわ」
その時、H.A.N.Sが目の周りの遮光パーツを開き、音声を流した。
「アクセル」
「ああ、そうだよ。私はアクセル。彼は私の叔父のオットー=リデンブロック教授で、彼女は娘さんのグラウベン」
「リデンブロック……グラウベン……」
二人の名前への反応は少し遅かったが、初めてのときよりも幾分か早い。生物でいうと寝起きのような状態なのだろう。徐々に元の動きに戻るのだろうか。
「グラウベン、彼はオートマタのH.A.N.Sだ。地球の記憶を持っているに違いない。そうだ!そうとも、我々の希望を持っているとも!さあ聞こう!今すぐ聞くべきだ!」
(おやおや)と、私は思った。
「食事は後回しだ。有言実行、善は急げ、だからな」
(やれやれ)と、私は考えた。(早く作っておくべきだったな)
叔父はリビングの椅子に腰掛けると、その前にH.A.N.Sを立たせた。
「まず、地球はどこにあるのかね。我々は今惑星ハウラベンにいるのだが……」
苛立つ叔父を制しながらしばらく待つと、H.A.N.Sは一言、音声を流した。
「チキュウ……?」
まさか。
叔父が地球の物を手に入れる度に、地球へと辿り着けぬ現実に打ちひしがれ、その場で叫び崩れ落ちるのを見てきた。今まさにその状態が起ころうとしている。グラウベンも不安そうにリデンブロック教授を見つめている。
H.A.N.Sはカチカチと内部回路を鳴らすと、ピ、と音を立て叔父を見る。
「……テラ?」と、彼からラヴィジ語が流れた。
この言葉だけは、旧言語に疎い、というよりもまず普通の星人は知らないと思うが、そんな私にも理解できた。何故なら、地球学で地球は『terra(テラ)』と発音されるからだ。大地や大陸を指す言葉だったそうだが、女神の別名でもある。我ら人類の母なる星に敬意を示す、美しい単語であると、私は思っている。
そのテラが彼から聞こえた時、叔父は飛び上がり喜んだ。
「そう、テラだ!どこにあるんだ、そこは!」
叔父は前のめりにマスク越しの瞳を輝かす。その瞳はまるで少年のようだ。
H.A.N.Sから流された音声は、こうだった。「ノ ロ セ」
すると、叔父は力を込めた手でマスクで覆われた顔を覆い、「何故だ!何故いつも答えに辿り着く寸前に足元をすくわれるのだ!!」と叫んだ。
おそらく、「わからない」と言われたのだろう。ぶつぶつと呟き、落ち着かないように血走った眼でその場をぐるぐると歩くと、苛立ちを自分の腕にぶつける。なだめようとグラウベンと私は努力をしたが、今回のリデンブロック教授は手強かった。
「ネイ」
H.A.N.Sが首を横に振り、叔父の腕を優しく掴むと、叔父はついに動きを止める。
寂しげに見える H.A.N.Sの眼を見て、私は気付いた。「そうか、記憶が解けないんだ。彼は何千年も圧縮チップに閉じ込められて、記憶が混同してます。ほら、言語がごちゃごちゃではありませんか!」
現在公用語として使われている星合語の他に古のラヴィジ語、太陽が沈まないと言い伝えられるステニック語、北国のアイリアル語が使われている。言葉の節での憶測だが、バラバラの言語であるのはまず間違いないだろう。
そう、きっと答えは近くにあるのだが、何重の鎖で巻かれているのだ。その鎖は、叔父が待てるほどすぐに解かれる筈もない。私はその瞬間、苦悩に押しつぶされそうになった。
しかし、叔父はそんなことでは諦めはしない。
「ふむ、記憶か。そうか、ならば簡単だ。記憶はどこかで繋がっている。それを辿れば良いだけではないか!」
笑みを取り戻したリデンブロック教授に、私は安堵と嫌な予感を覚えていた。
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