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森の記憶
ヨースと名付けた小型肉食動物ジャネックの子供は、H.A.N.Sと私に懐いた。叔父にはあまり近寄らなかったのだが、その気持ちはとてもよく分かる。何故なら、H.A.N.Sが何も思い出さないこと、(特に「ネイ」という否定の言葉を聞くたび)に少しずつ腹を立て始めていたからだ。ゆっくりだった貧乏ゆすりは徐々に細かくなり……と、そんな調子で私ですら恐ろしくなるほどに様子を変えていた。
「うむ、うむ。さっぱり分からないではないか!」
叔父は苛立ちを抑えるために煙草を咥え、火をつけた。香ばしい煙が船内に広がる。久々に嗅いだその香りに、私はむせた。
「叔父さん、船内ではなく外で吸った方が心も晴れるでしょう」なるべく気を立たせないように促すと、叔父は渋々、私が言った通り外へ出る。完全に安全ではないとはいえ、船内で呼吸困難になるよりはマシだ。
H.A.N.Sは煙草を吸う叔父を見つめると、ポート・アロナクスで発した「アルネ」という謎の言葉を呟いた。リデンブロック教授はその言葉がやはり気になるようで、近い言語を声に出し連ねる。
「テディシュ語、花の名。赤く炎のような色の花弁を持つアンルネ。北デークツ語、人名。男性名アールネ……」
叔父は何を思い出そうとしているのか、髪を掻き毟り始める。『アールネ』その名前ならば私も聞いた覚えがある。ああ、ここが惑星ハウラベンならばすぐにでも調べられるのに!私は初めて叔父と同じ感情に苛まれた。
(そうだ、検索機ならば)と、ノーティラスの外装に付いている端末を開いた。なんとか使えるようで、検索ファイルにまでたどり着けた。しかし、肝心の検索結果が無いのだ。どの星に回線を繋げても、返ってくる答えは一つ。
「アルネに関する情報はありません、だと?」
後ろで覗いていた叔父が声を上げる。その声に驚いたヨースが私の頭によじ登り、爪を立てた。まだ幼いから良かったものの、成体なら頭蓋骨に穴が空いていただろう。これからのことを考え、しつけはせねばと私は決心した。
しばらく調べていると、宙からポツポツと水の粒が落ちてきた。雨だ。宙は晴れているのに、小さな雨粒がシャワーのように体を濡らす。私はなんだか心地よくて、そのまま何の気なしに森を歩いた。
「狐の嫁入り」
しばらく後、ヨースを抱えたH.A.N.Sが宙を指差して一言漏らす。そう言う現象なのか、と初めて聞くその例えを、叔父と私は記憶した。少しずつ地球の記憶が戻っているのかもしれない。希望は見え隠れするものだ。
雨があがった。大地は濡れ、独特の匂いが辺りにたちこめる。大きく息を吸うと、水蒸気を含んだ空気が肺を満たし、落ち着きを与えてくれる。ペストマスクをした叔父は深呼吸する暇もなく、『アルネ』の真の意味を思い出そうと必死だった。
光が暮れた。雨があがって何時間経っただろうか。私たちは川のそばまでたどり着き、足の疲れに耐えきれずその場に座り込んでいた。
「アクセル、少しでも乾いた木の枝が無いか探してきてくれ」
叔父はまだ考え続けていたが、本来の冷静さを取り戻していた。私は叔父の手伝いをするためにもH.A.N.Sとヨースを連れて焚き火用の木の枝を集めに出かけた。
「こんなにたくさん木が生えているなら、一本くらい乾ききった木があればいいのに」
私はため息を漏らす。数時間前の雨の影響で木はおろか、小枝さえも湿っていたのだ。何も言っていないのが、肩を落とす私に、ヨースは小枝を拾ってきた。とても小さいのだが、不思議と乾いていたので使うことにする。
しばらく歩いていると、H.A.N.Sが乾いた薪を五束ほど持ってきた。
「H.A.N.S、いったいどこでこんなに薪を拾ってきたんだい?」
彼は驚いた私の腕を引くと、一本の切り株に案内する。なるほど、切ったのか。だが、どのように切り倒したのだろう。見渡すと、周りの地面はまだ湿っている。不思議に思った私は切り口に触れてみた。一気に切断したらしく、滑らかな触り心地だ。少し乾いてはいるが、湿っているような気がする。もしや、H.A.N.Sはレーザーカッターやバーナーのような道具を装備しているのだろうか。
「あと少し薪を持って行きたいんだ。小さな木を加工してもらえないかな?」
H.A.N.Sに頼んでみる。すると彼は頷き、細い木を探し当てた。右の指先から可視レーザーが伸びたかと思うと、まるで鞭を持つかのように振るった。宙に打ち上げられた丸太は、H.A.N.Sの操る可視レーザーに刻まれ、薪へと姿を変えた。地に落ちた薪を左手で集めると、白い煙が一瞬立ち昇る。手渡された薪は、しっかりと乾燥していた。よく見ると、細かな小枝にも手を当て乾燥させているようだった。その小枝をヨースが得意げに持ってくる。
なるほど、そういうことだったのか。ヨースの喉元を撫で、H.A.N.Sに感謝を伝えると、彼は満足そうに薪の束を抱えて叔父のもとへ向かった。
しゃがむ叔父の前でH.A.N.Sは薪に火を付けた。今回は左の指先から火が出る。
「ほう、素晴らしい機能を持っているではないか!」マスクの向こうの目を輝かせ、興味深くその様子を眺める。H.A.N.Sはやはり記憶を取り戻しているのかもしれない。
「この調子なら案外早く、地球について何か分かるかもしれませんね!」
「この調子だと?こんなに長く待ってられんよ!次は水の惑星アクアだ!夜が明けたら出発だぞ」
確かに食料は一ヶ月分ほどしかない。足りなければ現地調達でもするつもりなのだろう。そうとなれば急ぐ気持ちも分かる。
くたびれた私たちは、H.A.N.Sに一日分の食料であるビスケットと干し肉と、コーヒーの粉を持ってきてもらった。近くの川から水を汲んで湯を沸かし、満足のいく食事とは言えないが、空腹を満たすには十分な食事をした。ヨースに、干し肉を湯でふやかしたものを与えると、彼は満足したようだ。
この惑星ヨウスドには、無事にハウラベンに帰郷した後グラウベンとともに来たいと思う。
真夜中になった。流石にガゼラなど原生生物の活動範囲が広がる時間なので、ノーティラス船内で夜を過ごした。
グラウベンは元気だろうか。彼女と我々を繋ぐホログラムキネトスコープの返答がない。冷たい床で横になる私を、H.A.N.Sとヨースは見ていた。
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