偶像と現実

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「タイガー! ファイヤー! …!」  アイドルの曲のイントロの部分で叫ぶ掛け声だ。オタクたちの熱気の立ち込めるこの空間で、おれは青白く光るサイリウムをふりまわす。  ただただ無心に、ステージのアイドルの歌と踊りに合わせて拳を上げ飛び跳ねる。もう何も考えなくても、コールが最高のタイミングで自動的にでてくる。  この一体感がすごく心地いい。バカみたいに声を張り上げてもそれをこの空間は全部受け止めてくれる。  人間は全力で馬鹿になれる場所が必要なんだ。おれにとってそれがアイドルのライブだった。  このSHaGGYというアイドルグループのファンになってもう5年。最初は完全に楽曲からだった。入浴しているときに流しぱなしにしているラジオから曲が聴こえてきて、すぐにフレーズを頭の中で反芻しながら、湯船から出たびちょびちょの体でそのままパソコンで検索した。まだ結成して数か月のグループだった。  最初のライブに参加するときは死ぬほど緊張した。たぶんステージに上がる彼女たちよりも緊張していたと思う。それでも、もう一度足を運びたくなるような中毒性がそこにはあった。たどり着くべきところにたどり着いた、そんな気持ちになった。  かわいい系というよりはかっこいい系のパフォーマンスで注目を集めているアイドルだ。  中でもおれの推しのイチカはステージでのパフォーマンスにはストイックで、振付や歌詞も積極的に考案している。歌声はアイドルとは思えないほど鋭く、感情に鋭利な刃物を直接突き当てられるようなひやひや感がある。 「いやあ、よかったねえ」  オタク仲間のノートさんがメンバータオルで額を拭いている。ライブ終わりにこうやって近くのカフェによって、その日のライブについて、談義するのはもう習慣になっている。 「ハルナは歌上手くなってますね。MCもだいぶ板についてきたし、」  ノートさんは結成当時からのファンらしく、おれよりも5か月くらい先輩だ。でもそんなことはおくびにもださず、あくまで対等のファンとして接してくれる。 たった数か月だが知らないことが、ノートさんにいろいろ雑誌やDVDを借りて、勉強した。この知識量がノートさんと呼ばれる所以であるとかないとか。 「歌割りもふえたもんね」 「こんどドラマの仕事もあるらしいっすよ」  こんな話をしながら時間は過ぎていく。  全国のツアーを終えて、SHaGGYは大躍進を遂げた。歌唱力とエモい楽曲が評価され、今各地の音楽フェスにも引っ張りだこだ。それだけじゃなく、予告なしのゲリラライブ、炎上覚悟のYouTubeチャンネルでの女性アイドルグループにしては過激な動画投稿、奇抜な戦略でその活動を広げていった。  たぶんおれとノートさんはファンの中でも古参と呼ばれる人種で、握手会やチェキ会にも頻繁に参加しているため、他のファンにも知り合いが多い。  でもおれたちはお互いの素性を知らない。普段どこでなにをしていようと関係ない。そんなことよりもこの関係性が現実の外側であることの方が重要だ。本名さえも知らない、知らなくていいからだ。  今のファンのほとんどが、結成3年目、地上波初登場となった音楽番組から入ってきた人たちで、昔のSHaGGYの姿を知るのはもうそれほど多くはない。手探りを全力でするように、方針の変更を繰り返して、今のSHaGGYができあがった。当初から一貫している部分はあるとおれは思っているが、それで離れていったファンも少なくない。  初めて握手会に行ったときのことだ。 「あ、チャムス! かわいいね」  とそのときたまたま着ていたTシャツのペンギンのロゴを指さして、イチカはよく通る声で言った。握られた手は、画面越しに想像していたよりもすごく華奢で、でも熱のこもったものだった。はじけたような笑顔は、他のアイドルなんて知らない初心者のおれですら、神対応とはこういうことかと思ったほどだ。  握手会を終えて近くのベンチに座り、数秒間のやりとりを何百回と頭の中で繰り返していると、声をかけられた。 「あれはうれしいよねえ」  肥満気味の体型の男だ。年齢は40代半ばといったところか、明らかにおれより年上だ。SHaGGYのTシャツを着ている。 それがノートさんだった。握手会のことを思い出していて気づかないうちににやけてしまっていたのかと、口元をひきしめる。そんなおれの動揺には、反応せずノートさんは続けた。 「みんなライブTシャツで来るから、あんがい普通のファッションが認知されたりするんだね。勉強になったよ。見た感じ初めてだったでしょ? よろしくねチャムくん」  ノートさんと仲良くなり、他のファンにも知り合いが増えた。そしていつの間にかおれの名前もチャムで通るようになっていた。 「お、チャムさんおつかれ」 「チャムさん久しぶり、忙しかったの?」  オタク仲間からハンドルネームを呼ばれるたびに、おれのなかの人格が分離していく。  おれの推しているイチカは一部のコアなファンからは指示されているが、人気はだいぶ減った。最初におれに握手をしてくれたときのような笑顔はもう見せてくれない。  力のこもっていない握手、虚ろな目、言葉だけのありがとう。およそ塩対応と呼ばれるその立ち回りはファンからあまり受け入れられていない。  これも事務所の方針なのだろう。おれはイチカの神対応の時代を知っている数少ない一人だ。だから、本気であんな握手会をしたいわけじゃないんだと信じていた。有名になった今、そんな色物的な立ち回りはもうしなくていいはずだ。もうすぐあのときのイチカが戻ってきてくれるはずだ。
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