偶像と現実

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「矢本すまん」  そんな書き出しで始まった出張中の先輩から届いたメールは、明日の先輩の担当エリアをまわってくれないか、というものだった。なんでも、出張先の空港でトラブルがあったらしく帰ってこれなくなってしまったらしい。  自分の担当エリアでさえ、一日で回り切れない日も多いのに。この量だとアポイントメントをずらしていかなければならない。先輩は普段よくお世話になっている。だから自分には断る選択肢がなかった。頭の中で自分の担当エリアの顧客で時間の融通をつけてくれそうな人を考えながら、そのうちの一人からの電話が鳴る。 「ああ矢本さん? ちょっと納品の数あってる? とりあえず2ダースって話じゃなかったっけ? 契約書ちゃんと確認してくれる?」 「失礼しました、すぐに確認し、折り返しお電話いたします。」  受話器をそっと置いて、深くため息をつく。  おれは飲料メーカーに勤めている営業職だ。あまり大きくない会社だから、居酒屋や量販店、個人も法人も問わず担当エリアを回って、様々な飲料の営業をかけている。  契約をひとつもとれなかった日の、仕事の合間の昼食の時間、スマホをいじりながらとんかつ定食をほおばっているときだった。  AIが自分の閲覧したサイトから勝手に分野の似通ったネットニュースを引っ張ってくる。だからおれの場合SHaGGYに関するニュースは絶対に入ってきていた。 【イチカ、電撃脱退】  目を疑った。SHaGGYもイチカもこれからのはずだったのに。咀嚼しているとんかつは味がなくなって、ゴムを噛んでるみたいだった。 一気に体が重くなってしまう。  ニュースによると今日の夜、イチカの脱退について本人からのライブ配信がある。さっさと仕事を片付けて帰りたかったが、午後からも営業は山ほど残っている。明日の訪問先が増えた分、今日のうちに回れるところは回らないといけない。  自分でも真面目に仕事に取り組んでいる方だと思う。おれにとってアイドルは現実逃避ではない。もうひとつの現実だ。だからアイドルを、仕事を怠っていい理由にしてはいけない。  いつもより遅い時間に帰宅した頃には、もう配信は始まっていた。『どんな質問もすべてぶっちゃけてお答えします!』とテンションのずれたタイトルのついたそれはもう多くの人間が視聴中だ。  すでにけっこうな金額の投げ銭が送られている。  誰かがスパチャと一緒に質問した。 「加入したてのころとは別人ですが、どんな心境の変化があったんですか」  切れ長の目元はぴくりともしない。この放送も本人は乗り気じゃないが事務所から強制的に配信させられている、といった背景をいやでも想像してしまう。  事務所の方針で、対応のいい子が多いから、イチカはこういう風に冷たくあしらうような立ち振る舞いをさせられている、そんな願望にも似た思い込みはどんどん隅に追いやられていく。 「単純に疲れたんだと思います。私は楽曲やダンスに力を入れたくで、そんな中でファンの方との接触は、しょうじき邪魔でした」  これさえも、事務所から言わされて…、さすがにそこまでご都合のいいようには考えられなかった。たぶん、本心なんだ。リアルタイムで更新されるコメント欄はかなり荒れている。 「実力じゃなくて、容姿やファンへのサービスを評価されてしまう。アイドルといっても社会人です。事務所にもお客さんにもこびないといけないんだと強く感じていました」  淡々とよどみなく語る口調は、かなり前からこの考えと向き合ってきたんだと思い知らされる。 「そして私はそれを甘んじて受け入れられるほどのプロ意識も持てていなかった」  本音を話している。そのことが強く伝わってきた。それでもイチカは…、だめだ。イチカを肯定するための言葉が何も思いつかない。 「私にアイドルという職業は向いていませんでした」  何の希望も見いだせなかった。
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