偶像と現実

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 開店前の個人経営のスーパーにやってきた。普段回るエリアではないから少々道に迷ってもいいように早く会社をでたが、けっこうあっさりとたどり着いた。  案内されたバックヤードでは店主らしき人物が新聞を読んでいた。 「すみません、今日は担当が急遽来れなくなってしまって、申し訳ないんですが、私が代わりに…」  名刺を取り出しながら、その店主の顔を見てはっとした。 「いえいえ、そんな…」  店主が顔を上げる、間違いないノートさんだ。お互いに表情が固まる。 「まあ座りなよ。矢本くんっていうんだね」  驚いた顔はしたものの、いつもどおりのノートさんの喋り方だ。とりあえず名刺を交換して勧められたパイプ椅子に腰をおろした。向こうも改めて名前を名乗ってくれる。店長 富沢孝明。 「ここで働いてらしたんですね」  営業用のスマイルといつものノートさんといるときの自然体の表情が喧嘩してひきつったような顔になっているのが自分でもわかる。ノートさんは照れ臭そうに頭を掻いている。 「うん、お恥ずかしい。きみはすごい会社に勤めてるんだね。いろんなところ回ってるんでしょ」  おれの勤めている会社はただの中小企業だ。でも富沢さんの言葉には何の皮肉も嫌味も感じられなかった。  いえいえ、という自分の言葉がどうとられているのかいちいち気にしてしまう。  自分に活をいれる。これは仕事だ。商品を紹介しないと。  営業企画で通った飲料と企業ロゴの入った専用の冷蔵庫も抱き合わせで売らなければならない。こんなもの、どこも購入してくれないだろうと思うけど、話に出さないわけにはいかない。  カバンから資料を取り出そうとすると、富沢さんは言った。 「いいよ、買うよ。そんなにたくさんは無理かもしれないけど。紹介してくれたものは買う。こんな小さいスーパーだけどこれでも店長なんだ」 「え、そんな悪いですよ。せめて商品の説明くらい…」  だめだ。チャムのときの人間関係に頼ってしまっては。そんな気持ちが浮かび上がる。あれはあくまでこことは違う世界のおれだ。そこに頼ってしまうわけにはいかない。 「ずっと思ってたんだけど、」  副店長の富沢さんは、いつもと同じような、ノートさんみたいな柔和な表情を浮かべている。 「たぶん、君はプライベートと仕事を完全に分けようとしてるよね。ライブの時も私生活の話は聞いてこないし、自分からも言わないようにしてるように見える」 「…」  答えれなかった。図星だったからだ。でも認めてしまえば、ノートさんの状態じゃないノートさんを否定することにつながってしまうような気がした。 「でもそれは無理だよ、絶対矛盾が生じる」  自分よりも高い次元で物事を分かっている大人の目だ。ノートさんがよくする人に安心感を与える目だ。 「いいじゃないか、これぐらい、何をそんなに気にすることがある?」  同じ声だ。ファンの仲間内での立ち位置で悩んでいた時にもらった言葉とも一致する。 「でもね、チャムくんも、ここにいる矢本くんもどっちも君だよ。当たり前だけどね」  富沢さんは、他の営業先ではテーブルの隅に置かれてしまう、俺の名刺を両手で持って真摯に話しかかてくれている。 「僕はね、君だから買うんだ。それはいけないことかな? 信用のおける人だと知っている君だから。それともきみは仕事になると悪徳な営業をするような人なのかな?」  そんな時期もあったかもしれない。でも今は違う。真摯に仕事と向き合ってしんどいながらも、自分の中での曲げれない部分は残しているつもりだ。今日だって、冷蔵庫に対しての反応があまりよくなかったら、さっさと諦めて、他の店でもしっかりとした売上を記録している商品を紹介するつもりだった。  そんな社会人の自分にしてくれたのは、SHaGGYと会えて、ノートさんたちと関わるようになったからだ。  仕事の合間にトイレの個室でおれを励ましてくれるのも、企画会議のプレゼンの前日神経質になって眠れない夜を落ち着かせてくれるのも、先方にさんざん罵られたとき心を軽くしてくれるのも、そしてイチカの脱退にこれほどまでに心を痛めているのも、他でもないおれだ。 「きみが必死に引こうとしている境界なんてどこにもないんだよ」  諭すようにノートさんは言った。 「最後の握手会、もちろん行くんでしょ?」  おれは大きくうなずいた。
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