偶像と現実

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 ブースに入ると、当然だがイチカはいた。いつもどおりの力のない表情だ。 「ありがとうございます」  口角を若干上げただけの作られたような表情、言葉面をなぞるだけのお礼の言葉。  結局最後におれからイチカに伝えたい言葉はまとまらなかった。どんな言葉も届かないと思ったら、考えるのがむなしくなった。 「おつかれさま、でした」  イチカに片手で手を握られる。力の全くこもっていない握手の形をなしているだけの無意味なやりとりだ。  もしかしたら期待していたのかもしれない。最後の最後に今までありがとうという気持ちのこもった言動をする最初に会ったときのようなイチカを。でもそんなものはずいぶん前から気づかないうちに偶像になってしまったようだ。アイドルとはそういうものなのだろう。  ファン一人の言葉なんてどうしても軽んじられてしまうものなのかもしれない。おれはイチカじゃない。イチカの気持ちなんて推し量れなくて当然なのだ。  塩対応のあなたと、加入したての愚直だったあなたはどっちが本当なんですか。そんな質問に意味なんてない。どっちもイチカだから。 「今まで、ありがとう」  振り絞ってだした声は、たぶんイチカには届かない。心の抜けた顔で、テーブルに置かれた置時計の時間を気にしているようだった。  去り際、まだおれが完全にブースから出ていないのに、彼女はテーブルの下からペットボトルを取り出して口元に運ぶ。あのころの彼女はもうここにはいない。  その黄緑色のパッケージには見覚えがあった。 「え、それって」  つい声が漏れてしまって、イチカが無表情のままこっちを見る。 「時間ですので」  剥がしのスタッフが、これ以上の接触を許さないと、おれとイチカの間に入る。 「なに?」  その向こうでイチカが声を出す。マニュアルどおり割って入ったスタッフは困惑したバツの悪そうな顔を浮かべている。  その健康飲料はファンレターでおすすめしたことがあったものだった。もう数えきれないほど送った中のひとつ。アミノ酸も豊富に含んでいて疲れた体にも効き、後味もすっきりしている。おれが損得勘定なしで営業をかけられる数少ない自社ブランドのひとつ。  思えば、自分はとっくに境界なんてわかっていなかったのかもしれない。なぜ持っているのか、都合のいい考え以上に、現実的な考えが浮かんでくる。そう、運営が用意しただけのものだろう。つまりただの偶然。 「いえ、なんでもないです」  出口に踵をかえしたときだった。背中からその声は聞こえた。 「これおいしい、おしえてくれてありがとう」  何か返事をしようとしたとき、スタッフがさすがにといった表情で押し出してくる。最後どんな顔をしたのか見ることができなかった。ただ、それはどんなCDにも記録されていない、友達みたいな自然な声色だった。  ノートさんの言ったとおり同じ人間の中で境界なんてどこにもない。イチカの中のどこかごく一部分に、無数に放った言葉のほんの一つが伝わっていただけで、こんなにも胸がいっぱいになってしまう。  いつか、イチカが芸能活動を続けていて、うちの商品のCMに起用されて、おれがなぜかその担当になって…。  そんなバカみたいな妄想をしながらおれは帰路についた。
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