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「この人がお父さんになってもいい? 」 「(ゆかり)ちゃん、僕がお父さんになってもいいかい? 」  あの日の光景は幻だったんじゃないかと血の繋がらない父の自宅に通うとき、紫はぼんやりと思う。優しくはにかむ若かりしの父。生みの父の顔など知らない。紫にとって父は年長のときに突然に母が連れて来た男の人。頼りなくてふわふわしていて、いつも笑顔の人。その父と母の結婚生活は五年で終えた。父は同じ町にアパートを借りて少しだけ離れて暮らしだしたが、紫は用がなくても、そこに入り浸るようになった。  離婚してから父は冷たくなった。 「お父さん、はいチョコ。バレンタイン」  小学生の紫はそんな風に父にチョコを渡した二月はもうかなり遠い昔。 「そんな気を遣うな。僕にはもう何もできない」  そう言われたとき、悲しいより悔しいより、切ない気持ちが過ぎった。  確かにもう関係のない人なのかも知れないと思ったときもある。だが、父がまだ紫を娘だと思っていると紫は信じていた。  中学生のとき、父の部屋に向かっていたとき、野良犬に噛まれそうになったことがある。飼い主が何とか抑えたが、その現場を見ていた父は声を荒げた。 「うちの娘に傷を付けたら一生許さないからな! 」  父を怖いと思ったのは、それがはじめてで最後だった。何年も通っても父はなかなか紫に心を開かなかった。無理に閉じようとしていた。勝手に父の部屋に上がっても父は文句を言わない。その代わり会話もない。  離婚の原因が父が悪かった訳でも母が悪かった訳でもない。ただ合わなかったのだ。父も母もそれ以降、再婚しようとはしなかった。紫が父のもとに通うことを咎めもしなかった。
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