⑴ー①

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                 「飛田君、麦酒は飲めるかい」  料亭「梁泉(りょうせん)」の小部屋で匣館(はこだて)新聞の駆け出し記者、飛田流介(ひだりゅうすけ)は先輩記者の笠原升三(かさはらしょうぞう)そう切りだされた。 「麦酒ですか?……いやあ、少しばかり口をつけたことならありますが、あちらの酒は飲んだことがないです」  流介が正直に言うと、升三は「じゃあ、今日からたしなむといい。熱いものを食べてこいつを喉で味わうと、やめられなくなるぜ」  流介は昼間から酒を薦める先輩の意図がわからず「はあ」と間の抜けた言葉を返した。 「お待たせしました、当店名物の梁川鍋(やながわなべ)でございます」  薦められるまま流介が麦酒のグラスに口をつけると、襖が開いて年配の女将が湯気の立っている土鍋と共に顔を出した。 「おう、これこれ。昼時は蕎麦だが、ここに来たら一度はこれを食べないとな」  升三は嬉しそうに言うと、箸を手にした。流介はますます戸惑い、麦酒が注がれたグラスとぐつぐつ音を立てている鍋とを交互に見やった。 「実は今日、つき合ってもらったのは、新しい連載記事を君に担当してもらうためなんだ」 「えっ、そうなんですか」  流介はグラスを卓に置くと、升三を見返した。 「うん。今やっている連載小説が間もなく終わるのでね。読み物は結構、人気が高いんだ……まあ、泥鰌でも食べながら聞いてくれ。こいつは熱いうちでないと」  升三は小鉢に移した汁を啜ると「うまい。いい出汁だ」と言った。流介もつられるように鍋の中身を飯の上に乗せ、黄色い卵がほどよく絡んだ泥鰌を頬張った。 「うまい!」 「そうだろう。なにしろ「梁泉」といえば梁川隈吉(やながわくまきち)翁の店だからな」  さもありなんという升三の顔を見て、流介は「そうだった」と相槌を打った。  梁川翁といえば先の戦争で国賊とされた幕軍の死体を、危険も顧みず葬った伝説の侠客(きょうかく)である。梁川という姓は、奉公していた城で殿のために泥鰌の骨を見事に抜いてみせたことが由来だという。  戦争終結後、極刑を免れた隈吉はいさぎよく組を解散し、この料亭を開いたという話だ。これらの逸話は講談にもなっていて、地元の衆なら誰でも知っている。  この店は昼は蕎麦屋であり、必ずしも泥鰌鍋が売りではないのだが、さすがに翁の店ともなればその名を冠した鍋がまずかろうはずはない。流介はとろりとした卵ときれいに骨を抜いた泥鰌のふわふわした白身を心ゆくまで堪能した。 「たかが泥鰌と思ってましたが、なかなかどうして上品な味ですね」  出汁の効いた鍋を口に運んでいるうちにどうしても喉が渇き、流介は思わず箸を止め、麦酒を口にした。 「ふーっ、鍋と麦酒もまた、合いますね。恐れいりました」 「そうだろう。近頃人気の洋食もいいが、鍋物の旨さはまた格別だ」  升三はしたり顔で身を乗り出すと「そこで本題だが」と侠客もかくやという凄みのある声を出した。 「君にやって欲しいのは、いわゆる奇譚、怪談の類なんだ」 「怪談ですって?」  思いもよらぬ展開に、流介は頬張った泥鰌を噛まずに飲み下した。
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