⑴-③

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⑴-③

 山門をくぐって境内に入ると、石畳に照り返す白い光が目を覆った。  船見町の実業寺とその裏手にある墓地は、考えがまとまらない時にしばしば訪れる流介の「駆け込み寺」だった。ここでぼんやりと桜を眺めたり、住職と世間話を交わしたりするのが、流介なりの気晴らしだった。  本堂の周りを歩いて墓地に出ると流介は空を仰ぎ、大きく息を吸いこんだ。ここには匣館戦争で命を落とした志士たちが眠っており、時代の変わり目を生きた人たちの姿が偲ばれる気がするのだ。 「おや、飛田くんじゃありませんか」  ふいに声をかけられ、振り返るといつの間に現れたのか、顔見知りの住職が立っていた。 「日笠(にちりゅう)さん」  初老の住職はにこにこと満面の笑みで流介を見ると「何かお悩みでも?」と尋ねた。 「ええ、まあ。新聞の読みもの記事で急に怪談を探さねばならなくなって」 「ほう。怪談とはまた、この鳴事の世に古風な趣向ですな」 「僕もそう思います。とりあえず、宝来町か青柳町のあたりに秘密のカフェーがあるらしいと聞いたので、そこを訪ねてみたいと思っているんですが、なにぶん、手掛かりに乏しくて……」  流介がぼやいてみせると、日笠は「ふむ、噂だけなら私も聞いたことがある」と返した。 「本当ですか?」  流介は驚いて聞き返した。この年配の住職が、世に現れて間もないカフェーについて、しかも秘密のカフェーのことを知っているとは。 「だが、詳しいことは知りません。私が聞いた噂では、ある共通の嗜好を持つ者たちのたまり場だということだけです」 「つまりカフェーを装った秘密の集会場というわけですか。なんだか気味が悪いですね。アヘン窟のたぐいなら、この話はこれでおしまいですよ」  流介は顔をしかめ、ぶるぶると頭を振った。事件を追うのが仕事とは言え、そんな魔窟に足を踏みいれたらどうなるか知れたものではない。 「では、こういう話はどうですか。謎の貿易商、フォンダイス氏の漂流話です」 「漂流話?」 「弥生坂に、商家の一室を間借りしているハワード・フォンダイスという外国人がいます。商人仲間の間でこのフォンダイス氏の漂流話が謎めいていて面白いと評判なのだそうです」 「へえー。それは聞いてみたいですね。……でも僕は外国語が苦手で、お会いしようにもどう声をかけて、どう用件を伝えたものやら見当もつきません」 「とりあえず、通訳を雇って訪ねるのが一番の近道でしょう。新聞社なら外国語に堪能な記者さんの一人や二人、おられるのではありませんか」 「どうだったかなあ。……まあ、探してみます」  流介は日笠に別れを告げると、実業寺を後にした。普段はそこから山の方に足を向けることが多いのだが、ふと海が見たくなり、逆方向にある外人墓地の方に行ってみることにした。  魚見坂を下りつつぶらぶら歩いてゆくと、ほどなく柵と墓石の並ぶ斜面が見え始めた。ここにはプロテスタント、カソリック、ロシア人、中国人などの墓地が身を寄せ合っているのだ。流介は足を止め、柵越しに見える白い墓石群と、さらにその向こうに見える海とをしばしうっとりと眺めた。  さて、これからどうしよう、弥生町の方に行ってみようか、それとも社に戻って外国語のできる同僚を物色しようか……そんなことを考えながら、再び歩き出したその時だった。  ふと耳がささやくような歌声を捉え、流介は思わず足を止めてあたりを眺めた。すると少し先の道端に、やはり柵越しに墓地を見ている若い女性の姿があった。女性は色の白い外国人で、アメリカか欧州かはわからなかったが、大きく広がったスカートと洒落た日傘から、育ちのいい娘なのだろうと流介は勝手に考えた。  そのまま横顔の美しさに見とれていると、ふいに女性がこちらを向いた。流介は慌てて目を伏せ、それから恐る恐る顔を上げた。ご婦人の顔をまじまじと見るなど、失礼極まりない行為と思われたに違いない。だが、再び目に映ったその顔に一筋光る物が見えた瞬間、流介は逆にどぎまぎして女性から目が離せなくなっていた。  やがて女性はくるりと身を翻すと、思いのほか早い足取りで柵の前から立ち去った。
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