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「ふう、失礼しました。新聞に載せるには少々、気味が悪すぎる話でしたな」 「とんでもない。まるで小説のようで、興奮しましたよ。私も船に乗るんですが、これといって変化のない貨物の揚げ降ろしばかりで、退屈そのものです」  天馬がそう言って船の模型に目をやった時だった。ふいにどこかでチン、という小さな鐘の音が聞こえた。途端にフォンダイス氏はパイプを口から離し、引き出しを開けた。 「こんなに遠い場所まで追ってくるのか、メアリー……」  フォンダイス氏がそう呟いて取りだしたのは、懐中時計だった。チンという音はどうやら時を告げる鐘の音だったらしい。フォンダイス氏は時計をしまって息を整えると、飾り棚の方に足を向けた。 「すみません、お恥ずかしいところをお見せして。……ウィスキーかワインでもどうです。仕事中でも一杯くらいならいいでしょう」 「いえ、お構いなく。そろそろ我々はお暇させていただきます」  天馬が流介に先んじて暇を告げた直後、突然、ノックの音と共に女主人の声が聞こえた。 「フォンダイスさん、お客様です」 「……誰です」 「例の、目の不自由な男の方です。いつもの品の代金を頂きたいとのことです」  女主人の言伝を聞いたフォンダイス氏はにわかに青ざめると「今はだめだ」と言った。 「そう言われましてもねえ。ご自分で断ってくださいな」  不愛想に言い置くと、女主人は階段を降りていった。すると天馬が急に思いついたように「お加減が悪いのなら、私が代わりにお伝えしましょうか」と言った。 「なんですと。あなたが代わりに?」 「ええ。目の不自由なお客さんにそう言えばいいのでしょう、お安い御用です」 「……では、お願いします。私は玄関まで出向いて行けそうにないので」  フォンダイス氏は椅子に身体を戻すと、深々と頭を下げた。天馬は「面白いお話をありがとうございました」と一礼し、身を翻すと流介に「行きましょう」と辞去をうながした。  部屋を出て階下に降りると、店先に一人の外国人男性がたたずんでいるのが見えた。  男性は小脇に鞄を抱え、空いた手で杖をついていた。ははあ、あれが客か。流介がそう思っていると天馬がするりと脇を抜け、何やら英語を口にしながら男性に近づいていった。 「××××××」  天馬が早口で何事かを告げ、男性はしばらくぐずるような素振りを見せた後、名残惜しそうに立ち去った。 「すごいじゃないか、外国人同士の仲介を買って出るなんて」 「なんてことはありませんよ。伝馬船の仕事をしていれば、外国人との面倒なやりとりはしょっちゅうですからね。……それより飛田さん、フォンダイス氏の話、どう思います」 「どうって……大した冒険譚じゃないか。これなら連載第一回から恥をかかずに済む」 「そうでしょうか。鵜呑みにするのは少し待った方がいいと私は思いますがね」 「どういうことです?」 「フォンダイス氏の話はほぼ、嘘っぱちですよ、貨物船に乗ったことと、漂流したということは事実かもしれませんが、大渦に呑まれて助かったなんて作り話もいいところです。……飛田さん、エドガー・アラン・ポオというイギリスの作家を知っていますか」 「ああ、名前は仲間の記者から聞いたことがあるよ。たしか怪奇小説を書く作家だろう」 「そうです。そのポオが半世紀近く前に発表した「メエルシュトレエムに呑まれて」という小説が、まさに大渦に呑まれて生還する話なのです。おそらくそれを読んだのでしょう。何か面白い話はないかと請われたフォンダイス氏は、ただの漂流話ではつまらないと思って小説の一部を混ぜてしまったのです。この日本でポオを読んでいる人など、そう多くはいないだろうと高をくくってね」  流介は思わず目を瞠った。この男ならコナン・ドイルとやらも読んでいるかもしれない。 「では私は港に仕事を残してますので、これで」  商家を出たところで天馬は足を止め、流介に一礼した。なんとも忙しい青年だ。 「なかなか面白い取材だったよ。また何かあったらよろしく頼む」  立ち去る天馬の背を見ながら流介はさて、これからどうしようかと思案を始めた。  秘密のカフェ―を探しに宝来町か青柳町に行ってみようか。あるいは谷地頭の「梁泉」で蕎麦を食ってから編集部に戻るか。そんな埒もないことを思いかけた、その時だった。  近くの路地から現れた人影に、流介は思わず目を奪われた。ひときわ目を引く洋装は、あの墓地で見かけた外国の婦人に違いなかった。女性は流介のいる商家の前で立ち止まると、驚いたことに店の中へと入っていった。さてはフォンダイス氏の縁者であろうか。  なんとなしに様子をうかがっていると、中から女主人の朗らかな笑い声が漏れ聞こえてきた。どうやら女性とは旧知の間柄らしい。それだけわかれば十分だ。流介はくるりと向きを変えると、宝来町の方向に足を向けた。
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