くちびるを寄せて

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 河原(かわら)浄志(きよし)はここぞという時、運に見放されがちだった。  高校受験の際、浄志の第一志望は「御三家」と呼ばれる私立男子校の筆頭校だった。塾の模試では合格圏と出ていたが、浄志は受験前夜に高熱を出した。救急外来で受けたインフルエンザ検査が陰性だったのは救いだったが、翌朝もまだ三十八度近い発熱が続いていた。這うように試験会場へ赴いたが、もうろうとする頭で実力を発揮できるはずもない。翌日貼り出された合格者番号一覧に、浄志のものはなかった。補欠の五番目にかろうじて引っかかったが、その年の辞退者は四人だった。  気を取り直して受けた第三志望の国立校に合格し、翌春、浄志は電車通学を始めた。最寄りの私鉄駅から地下鉄に乗り継ぎ、片道一時間の距離だった。途中に官庁街の駅を通るため、満員電車は乗客の八割方がお堅いスーツ姿だった。  国立校には、中学部から進学してきた「内部生」と、浄志ら高校受験組の「外部生」がいた。前者は概しておっとりした、良家の子女だった。外部生がガツガツと成績上位を狙いに行くなか、内部生らは中学時代からのグループで固まり、「外部生にはかなわないから」とのんびり構えていた。  初の中間試験を二週間後に控えたある日、浄志は一人の内部生から「一緒に勉強しない?」と声をかけられた。同じクラスの世良(せら)一彦(かずひこ)だ。小柄な浄志よりも二十センチ以上背が高く、手足の長い少年だった。  すらりとした長躯と、彫りの深い顔立ち。テレビで見たような既視感があるのは、おおかた芸能人の誰かに似ているからだろう。授業では穏やかながらも理路整然とした語り口調が光り、男女問わず受けが良さそうだった。だが、一彦はいつも独りだ。無視されているのではなく、腫れ物に触るような扱いだった。放課後、学校から徒歩圏内にある一彦の家を訪れて、浄志はその訳を理解した。 「たぶん親父が寝てるけど、気にしなくていいから」  山の手に広がる高級住宅街の一角、瀟洒な一軒家の門をくぐり、一彦が言った。鉄柵の門から玄関へと至るアプローチには、アーチ形の屋根がかかっていた。ピンク色のつるバラが咲き誇る「花の天井」を、浄志は感心して見上げた。  一彦が鞄から鍵を取り出し、玄関のドアを開けた。手入れの行き届いたアプローチと同様、家の中もチリ一つなく整然としていた。ところがリビングに入るなり、浄志は床に放置されていた何かに足を取られた。 「う、うわっ!」 「河原くんっ」  背後で一彦の悲鳴が聞こえた。もんどり打ってリビングの中央に躍り出た浄志は、ぼすんと音を立ててソファに尻もちをついた。重厚な革張りのソファに寝そべっていた何者かが、「ぐえっ」と濁った声を上げた。 「ご、ごめんなさ――」  浄志は慌てて降りようとしたが、足にひも状のものが絡みつき、顔から墜落しかけた。尻に敷いた誰かが浄志の痩せた腰を掴み、「危ないなあ」とぼやいた。 「河原くん、大丈夫? もう父さん、散らかさないでって言ったじゃん」  一彦が寄ってきて、浄志の足から黄色の帯を解いた。直径三センチほどの綿製の帯だ。どこかで見た気がして浄志が目を凝らすと、掴まれたままだった腰がひょいと浮いた。 「それ汚すなよ、明日スタジオに持っていくんだ」  むくりと起き上がった男を見て、浄志は「あっ」と小さく叫んだ。民放の朝の情報番組で、レギュラーコメンテーターをつとめるジャーナリストだ。  放映はちょうど浄志の通学時間にあたるため、普段は見ていない。母親が熱心な視聴者で、長期休みや祝日の際など「浄志も見なさい」と強制的に付き合わされていた。母が毎朝欠かさず見ている理由が、まさに目の前の男――世良(せら)彰彦(あきひこ)だった。  眼光の鋭さと年齢相応のシワを除けば、彰彦と一彦はよく似ていた。初めて一彦を見たとき覚えた既視感はこれかと、浄志は膝を打つ思いだった。  そして彰彦が息子から取り上げた黄色の帯は、「マヘーンドラ帰依教」の信者が身につけているものだった。来たるミレニアムに世界が崩壊するとの終末思想を掲げ、「救世主」たるカリスマ教祖を頂点とするピラミッド式の序列を敷く新興宗教だ。いわゆる「自分探し」中の若い世代から支持を集め、急速に規模を拡大していた。  従順な信徒らが、教祖の脳波を受信するというヘッドギアを装着して修行に励んだり、いかがわしげな儀式に傾倒する様子などを、メディアは面白おかしく報じていた。カテゴリとしては心霊・超能力の類と同じ扱いだ。彰彦が出演する情報番組でも、教義の是非はさておき、一見コミカルな教団のオカルティズムを娯楽として消費していた。  他の出演者たちが教団の荒唐無稽さに茶々を入れるなか、彰彦だけはマヘーンドラ帰依教を「危険なカルト集団」と糾弾した。黄色の帯は信徒らが入信の際に購入させられるもので、教祖が一本ずつ手ずから生命エネルギーを注入しているとのことだった。 「こんなガラクタで五万もむしり取ってるんだ。何が教祖のエネルギーだ、浦和の工場から産地直送だって明日番組で証言してやる」  片側の唇を吊り上げる、意地の悪い笑みを浮かべて彰彦が言った。浄志は「はあ……」と呆気に取られつつ、母親の「世良さん、今日も素敵ねえ」と娘のようにはしゃぐ声を思い出した。  数カ月前、そんな母がしきりに大騒ぎしていた。彰彦の離婚騒動だ。  彰彦の元妻は、十歳年下の女子アナウンサーだった。若手俳優と不倫の末に身ごもったことを、年明け早々週刊誌にすっぱ抜かれた。彰彦は妻の不貞に遺憾の意を示しつつも、「お腹の子のために」と離婚に応じた。更に、現行の法律では産まれてくる子が彰彦の子どもになってしまう旨を番組で問題提起し、事態は単なるスキャンダルから戸籍法の改正問題にまで発展した。彰彦の働きかけで野党が共同提出した法改正案は国会で否決されたが、世論喚起という点では一定の成果を上げた。  そんな経緯があったから、一彦が内部生たちに遠巻きにされているのもうなずけた。  母は彰彦のニュースを目にするたび、「世良さんを裏切るなんて、元奥さんは見る目が無いわね」と延々くり返した。思い返して苦笑していた浄志に、彰彦が「そこの資料、まとめてくれない?」と顎をしゃくった。紐が落ちていた付近に、パンフレット状の小冊子が何十冊と積まれていた。マヘーンドラ帰依教の機関紙だ。 「ちょっと、父さん。河原くんに変なこと頼まないで。一緒にテスト勉強するために来て貰ったのに」  息子が苦言を呈しても、彰彦は意に介さなかった。 「ぬるま湯に浸かってきた内部生の坊ちゃん嬢ちゃんに比べて、外部生は歴戦の猛者ぞろいだろう? おまえに足引っ張られてテスト勉強するより、僕の手伝いの方が彼の人生の役に立つさ」  なあカワラくん、と彰彦が浄志にウインクした。浄志は一瞬目をみはり、緊張がちにうなずいた。横で一彦が「河原くん、そりゃないよ」といじけたが、浄志の胸はふわふわと甘い思いに満ちた。  その日から、浄志は世良宅へ足繁く通った。息子の級友に過ぎない浄志を、彰彦がアシスタントに選んだ理由は分からなかった。  浄志がテレビで初めて彰彦を目にしたのは、中学二年の夏休みだった。思春期を迎えて周囲が異性を意識し始めるなか、自分だけが取り残されたように感じていた。だが母の背中越しに、何やら熱弁する彰彦の姿を見た瞬間、浄志の胸に未知の感情が去来した。その正体を、浄志は三年ぶりに自覚した。一目惚れだったのだ。  マヘーンドラ帰依教に限らず、彰彦は番組で扱われる時事について、万全の準備を整えて毎朝の収録に臨んだ。番組出演と並行して執筆業にも精力的に取り組んでおり、浄志はそちらの情報収集・分析にも駆り出された。泊りがけになることもしばしばだったが、彰彦ファンの母は「世良さんのお役に立てて光栄ね」と、息子の一風変わったアルバイトを全面的に応援した。そんな母も、よもや息子が彰彦に恋をこじらせようとは思いもよらなかっただろう。  アシスタントを始めた当初は、叶わぬ恋と諦めていた。だが彰彦のもとで働くにつれて、浄志の心境が変化した。  梅雨のある日、調べものが長引いた浄志は、世良家のリビングのソファで横になった。窓越しの雨音を子守歌にうたた寝していたら、二階から階段を降りる音が聞こえてきた。起きなければと思う間もなく、無造作な足音が近づいてきた。肩にふわりとブランケットを掛けられ、ややあって頬に淡い感触が落ちてきた。それが彰彦の唇だと気付いたのは、既に嗅ぎ慣れた煙草の残り香からだった。  次の契機は夏の盛りだった。頼まれていたデータ分析を完了し、浄志は彰彦の書斎に向かった。彰彦は打ち合わせ用のカウチに腰を深く落とし、いびきをかいていた。 「世良、せんせい」  雨の夜に落とされたキスを思い出し、浄志は彰彦にふらふらと近づいた。頬にくちづけるつもりで寄せた唇は、ふいに振り向いた彰彦の唇に着地した。焦点の合わない間近で、彰彦の目は閉じたままだった。浄志の口腔にもぐり込んできた舌は、浄志の舌先を一瞬舐めただけで、あっさり引いていった。 「せ、んせ……?」  呆然とする浄志の前で、彰彦は「ううむ」と身をよじった。浄志から顔をそむけて、再びいびきをかき始めた。眠りと狸寝入りの境目がわからぬまま、浄志は部屋を辞した。  敦彦の、わずかにアルコールがにじむ舌の感触を、浄志は記憶が擦り切れるほど反すうした。  極めつけが告白だった。晩秋、日本で初めて男性カップルが神前結婚式を挙げたとの報を受けて、彰彦は浄志に憲法二十四条「婚姻」の定義についての調査を命じた。合憲・違憲それぞれの立場をとる専門家たちの意見をまとめるという仕事だ。  書斎の応接テーブルで浄志が資料を広げていたら、ふいに彰彦がデスクから「浄志はどう思う?」と聞いた。 「えっ?」 「同性婚。賛成か? それとも反対?」  彰彦の双眸は静かで、感情は読み取れなかった。浄志は「うーん」と逡巡し、ややあって口を開いた。 「賛成……ですかね。異性が好きじゃないと結婚ってシステムの恩恵にあずかれないのは、なんか不平等な気がするので」  早口で言いつのり、浄志は目を伏せた。浄志をじっと見つめる聡い男は、浄志がその「不平等」を感じる側の人間だと、とっくにお見通しだろう。 「……俺もそうだ」  文献のページをめくる音のあわいに、彰彦のつぶやきが聞こえてきた。浄志がハッと顔を上げると、彰彦は原稿用紙に万年筆を走らせつつ「そもそも……」と言葉を継いだ。 「同性婚が許されてたら、女とは結婚しなかった」  浄志が固唾を呑んで見つめるなか、浄志の万年筆がふと止まった。ペン先から、原稿用紙にインクがにじんだ。 「――ああ、でも、そしたら浄志と出会わなかったんだな」  泣き笑いのような顔を向けられて、浄志はにわかに目をみはった。  その日はふわふわとした心持ちで、現実感がともなわないまま帰路に就いた。リサーチは次の日も続く予定だった。ベッドに入り、まぶたを閉じても、眠りはなかなか訪れてくれなかった。目が覚めたら彰彦に自分の気持ちをどう伝えようかと、思い悩むほど眠れなくなった。浄志がようやくまどろんだのは、東の空が白み始めてからだった。  だが、浄志が彰彦に思いを伝えることはなかった。翌朝、マヘーンドラ帰依教による未曽有の無差別テロが勃発したのだ。通勤ラッシュのさなか、数名の幹部信者が地下鉄車内に有毒ガスを散布したのだ。教団をエンターテイメントとして扱ってきたメディアは一斉にスタンスを転向し、教団のいびつさを非難する特番を連日流した。もともと反教団の立場を取ってきた彰彦は各キー局に引っ張りだこで、都心のホテルに缶詰め状態だった。ろくに帰宅もままならない彰彦からの指示を、浄志はただ静かに待った。  彰彦から連絡があったのは、しばらく経ってからだった。直接ではなく、知り合いを介して「会いたい」との知らせを受けた。呼び出されたのは学校からほど近い雑居ビルの七階で、足を踏み入れるなり、甘い煙草の匂いが漂ってきた。  十畳に満たない狭い事務所は、窓に空色のカーテンが掛かっていた。朝からぐずぐずと涙雨が降りしきり、カーテン越しに差し込む光は弱々しかった。  中央に応接セットが据えられて、上座に見知らぬ若い男が座っていた。奥二重の瞳は、まなじりが涼しげだった。高くまっすぐ通った鼻梁と、薄い唇が相まって、怜悧な印象を醸していた。ベージュ色のカットソーに純白の羽織という出で立ちからは、一見ちぐはぐな印象を受けた。  咥えていた煙草を長く細い指でつまみ、男が「河原浄志さんですね」と言った。浄志がうなずくと、男は「私は比良坂(ひらさか)密緒(みつお)といいます」と名乗り、浄志の横に顔を向けた。比良坂の視線を追ってはじめて、浄志はそこに腰かける彰彦の姿を捉えた。  比良坂は再び浄志に向き直り、「浄志さん、あなたに伝えたいことがあるそうです」と彰彦を指差した。彰彦はどこか虚ろな目で、比良坂と浄志を交互に見やった。 「あ、あのう……」  いつになく気弱な声で、彰彦が男に告げた。比良坂は柔らかく目を細めて、「大丈夫ですよ」と彰彦を促した。彰彦はしばし戸惑っていたが、やがて意を決したように浄志を見上げて、背広の内ポケットから便せんを取り出した。、ところどころ黄ばんだ三つ折りの便せんをおもむろに開き、彰彦は「拝啓……」と手紙を読み上げ始めた。  久しぶりの連絡にしてはずいぶん変わった趣向だったが、彰彦の気まぐれさは今に始まったことではない。浄志は手紙を読み上げる彰彦に目を凝らし――ざらりとした違和感を覚えた。  かっちりと七三に分けた髪も、官僚が制服さながらに纏う退屈なダークスーツも、彰彦のものではない。彫りの深い顔立ちは確かに彰彦その人だったが、そこに浮かぶ表情はまるで別人だ。戸惑いも煩悶も、彰彦からは一番遠くにある気質だった。それらは彰彦というより、むしろ息子の――。 「……河原浄志さま。あなたが私の前から突然姿を消してから、二十年以上の時が流れました。けれど、私の心はあの忌まわしい事件が起こった日に、ずっと囚われたままなのです――」  目の前の男がそこまで読み上げたところで、浄志は後ろから肩をぽんと叩かれた。振り向いた先で懐かしい顔が微笑み、浄志もおのずと笑い返した。  * * *  比良坂が「あっ」と声を上げて、手紙を読む男――の言葉を、「すみません」と遮った。困惑する一彦に、比良坂が「たぶん、もう大丈夫ですよ」と述べた。 「お手紙の内容は、ご自分で浄志さんに伝えられるそうなので」 「そ……そう、ですか」  一彦がごくりと喉を鳴らし、微かに肩をふるわせた。 「ひんやりしたでしょう?」  微笑を孕んだ声で比良坂が聞いた。一彦がうなずくと、比良坂は握っていた数珠を机に置いて、再び煙草を口に咥えた。 「今、お父さんが去り際に、世良さんの肩を叩いて行かれたので」  甘い紫煙に混じり、比良坂が笑い声を漏らした。一彦がおずおず、「何か言ってました?」と尋ねた。比良坂は羽織りを脱ぎ、その下にたすき掛けにしていた守り筒――「オダイジ」と呼ばれる布製の筒を降ろした。 「……『余計な気を回すな。でも、ありがとう』、だそうです」  比良坂の言葉に、一彦はぐっと下唇を噛み締めて「父さんらしいなあ」とこぼした。 「先日、父が亡くなって……遺品を整理していたら、この手紙が出てきまして」  訥々と語る一彦の言葉を、比良坂は今度は遮らなかった。 「河原くんのことは僕もずっと覚えていましたし、何なら彼と父のあいだにどんな感情が横たわっていたのかも、薄々感じ取っていました。ただ……」  一彦が言葉に詰まり、みるみる頬を赤く染めた。比良坂は口もとの笑みを絶やさず、「ええ」とあいづちを打った。 「こ……この手紙に綴られているような、熱烈な思いが父の胸にくすぶっていたとは、正直なところ意表を突かれました。だからどうしても、河原くんにこれを伝えなければ、父も成仏できないだろうと思ったんです」  真っ赤になって心の内を吐露する一彦に、比良坂が「世良さん」と声を掛けた。 「は、はい」 「世良さんは、特別なひとです」  比良坂が言い、一彦は目を丸くした。比良坂は「だからこそ、こんな奇跡が起きた」と微笑んだ。 「僕も長いことイタコをやっていますが、口寄せのときに他の霊が――あっ、つまらない小悪霊とかは別として――降りてくることなんて、初めてです。世良さんの、お二人への温かな思いやりが、こうしてお二人を繋げたのだと思います」  比良坂の唇で、だいぶ短くなった煙草がジジ……と微かな火花を散らした。比良坂の指が煙草を灰皿に落とし、ジュッと湿った音を立てて(ともしび)が消えた。 「世良さんは、お二人が特別な存在だと感じてらっしゃるでしょう。そうしてこれまで生きてこられた。でもね、世良さん」  言葉の一つひとつを口のなかで転がすような、慈しみ深い口調だった。 「あなたも同じように――生きてらっしゃる分、それ以上に特別なんですよ?」  比良坂が歌うように言って、一彦の手を取った。しっとり冷たいたなごころは、先ほどの父の手を彷彿とさせた。一彦が遠慮がちに握手を返すと、比良坂の薄い唇が、再び優雅な弧を描いた。 〈了〉
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