深淵より×××

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深淵より×××

「うちに何かがいます」  その通報を受け取ったのは久賀原町二丁目にある交番。加藤ヨシアキ巡査と居ケ内ヨウイチロウ巡査長は町内のとあるアパートへ出動した。  何がいるのかと問えば、わからないと答える。室内はどのような様子かと聞けば、なんとも言えないとぼかされる。  質も景気も悪い悪戯だと二人が訝しんだのは当然だ。  しかし受話器を通して聞こえた、切羽詰まったというよりは困惑した声。電話を取った加藤はこの通報の真意が、他者をあざ笑うためのものとはどうしても考えられなかった。  通報者は二人暮らしの老夫婦である。夫は石井ジョウジ、妻はツクシという。  現場は彼らの自宅だった。木造二階建てアパートの一階の角部屋、虫よけがドアノブに吊るされている扉の前で、老夫婦が物忘れが酷くなったと気付いた時のような困り顔を並べていた。 「どうかしましたか」  駆け付けた居ケ内が尋ねると、動転した様子で石井氏が話し始めた。唾液混じりで活舌の悪い口から聞き取るのは苦労したが、繰り返しの問答の末、ようやく通報に至った理由が分かった。 「買い物から帰ってきたらドアが全然開かないもんでな。ドアポストから中を覗いてみたら、何かがうちにいるんだよ」 「知らない人ってことですか」 「……どうだろうなあ」  なぜ歯切れが悪くなるのだろうか。首を捻る加藤。 「誰が中にいるのかわからないのですか? 奥様も?」 「それが、こいつも中に何がいるかわかんねえって言うんだ。車もないし、子供たちが遊びに来ているわけでもなさそうで」  ここで石井夫人が旦那をかき分けて加藤に迫り、どもり気味にまくし立てた。 「私は、私は虎みたいなものがいるように、見えました」  耳はちゃんと二つ付いているだろうか。不安になった加藤は両手で叩いてみた。 「……虎ですか?」 「ええ、虎です! 昔、インドの旅行で見たことあるの。毛むくじゃらなのがそっくり!」  話が見えてこないが、不審者が住人に代わって居座っているのは間違いなさそうだ。ベランダの窓を見に行っている居ケ内を呼んでこようとした、その時。 「何言ってんだ。中にいるのは、でっけえ猿じゃねえか」  素っ頓狂な声を上げる石井氏。  加藤はもう一度、両耳に手を触れた。
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