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 私の父幸之助(こうのすけ)は、第二次世界大戦の最中(さなか)、横須賀のドブ板通りで日本帝国海軍を相手に商いを営んでおりました。それは繁盛しており、一人娘である私は奉公人も含め、蝶よ花よと育てられました。と言いましても甘やかされていた訳ではございません。父は淑女(しゅくじょ)であれとお稽古事など、所作(しょさ)をしっかりと(しつけ)てくださいました。  昭和20年(1945年)になりますと、日本帝国の敗北で終戦が訪れました。私の家にはラヂオがありましたし勉学も(たしな)んでおりましたので、この頃の事はよく覚えております。8月には横須賀に米海兵隊が上陸し、市内軍事施設は全て進駐軍管理下に置かれました。そして米海軍横須賀基地司令部が発足いたしました。  他の商売人が米兵相手の商売に転じる中、父は猛反発いたしました。楯突(たてつ)き、もみ合い、挙げ句銃弾に倒れました。私が13の時でございました。  父が築き上げた財も、一度傾いたら崩れるのはアッという間でございました。借入先(かりいれさき)の取り立てから逃れる内に母は病に伏し、そのまま眠りについてしまいました。手元に残った物と言えば、白いドレスと幾ばくかの装飾品と化粧品だけでございました。人目に付かぬよう、大切に仕舞っておきました。  私の自尊心が高いせいか、所作が鼻につくのか、方々(ほうぼう)の親戚をたらい回しにあいました。そうして、お酒臭い叔父に体を求められ逃げ出したのが17の時でございました。
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