衝突と距離

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衝突と距離

 和也は楽団の見学を経て、正式にピアノを弾くことを決めた。それ以来時間が許す限り、普段の練習ではリストのピアノ協奏曲の練習に没頭。もともと今すぐに弾けと言われれば弾けるくらいに仕上がっていたが、それでもなお完璧なものに近づけるためにと、和也は自分のできる限りの練習を毎日欠かすことなく行った。  和也自身、楽団に合流する際に起こりえる、色々なハプニングを想定した。  もしかすると楽団の人は、来週再会した時には自分のことを忘れていて自分のことを嫌いになっているかもしれない。落ち込まないようにしなければ。  もしかすると楽団の人は、本当は自分のことを嫌いだと思っているけれど無理をして合わせてくれているのかもしれない。迷惑をかけないようにしないと。  もしかすると楽団の人は、自分よりも優れたピアニストを見つけてくるかもしれない。そうなったら何も言わず楽団から抜けよう。  考え出すと、きりがない。和也自身、“普通”がわかっていないことを知っている。だからこそ、久美から刷り込まれた“普通”を追いかける癖が、物心つかないうちについてしまった。  追っても追っても、ぼんやりとしか姿を見せない“普通”を追う。それは和也にとって、もはや哲学に近いような気さえしていた。  楽団員とうっすらと顔を合わせた翌週から、和也は正式に楽団の練習に加わることになった。  行き帰りは香鈴が駄菓子店まで和也を迎えに行って送り届けるよう約束をしているため、楽団練習日になると和也と香鈴は必然的に長く時間を共有するようになる。  あかりは平日の朝弁当を買いに駄菓子店に顔を出しているから、なんだかんだ週の半分以上は和也と顔を合わせている。 「おはよう、先生」 徐々に和也から声をかけて貰えるようになってきたのも、この頃からだ。  相変わらず他の客とは目を合わさないし、子ども達にも多くは語らないが、和也の表情は日を追う事に少しずつ豊かになっていっていて。  それを見守る初音は、素直に嬉しいという思いが湧いてくる。  そして訪れた、楽団と和也の初めての合同練習の日。  いつもと変わらず無表情に近い和也の表情を眺めながら、香鈴は和也が運転する軽トラに揺られて練習ホールに向かう。  ガタガタのほぼ整備されていないような道を揺られる。2回目ともなれば、さすがに慣れてきた。  和也は今日、ちゃんと自己紹介ができるだろうか。彼の様子は、外見からは大きな変化がないように見えているが……。 「和也」 声をかければ、いつもと変わらない単調なトーンの声が返ってくる。 「なに? 」 派手に緊張していないようで、内心ホッとした。 「自己紹介、何を言うか決めたか? 」 その質問を聞いて、和也の視線がじんわりと泳ぐ。 「……名前しか、まだ思いついてない」 「わかった。前を見てくれ」 運転中だろうがなんだろうが、困れば和也の目は泳ぐらしい。こんな山道で、しかも夕方になって事故に遭うのは遠慮したい。  和也は香鈴のそれに頷き、改めて前を向いた。 「自己紹介は難しく考えなくていい。今までどんな風に自己紹介をしてきたんだ? 」 大体自己紹介と言えば、名前と軽い挨拶程度ですぐ終わる。多分和也は、“軽い挨拶”で躓いているのだろう。 「自己紹介、したことない。学生時代はみんな幼稚園から一緒だったし、人嫌いだから知らない人は避けてきたし」 軽い挨拶以前の問題だった。名前を言う以外に、なにを話せばいいかということが、よく分かってなかったようだ。 「そうか。大丈夫、難しくないから。今から練習すれば、すぐにできるようになる」 こんなとき香鈴は揺らがない。想定がズレようがなんだろうが、すぐに相手の状態を把握するスキルは習得済みであり、そこ部分には自分でも自信を持っている。  顔色ひとつ変えず、香鈴は和也に自己紹介の内容を話し始めた。 「自己紹介で名前を言うのは正解。名前のあとは、軽い挨拶をする。それでおしまいだが、挨拶ってどういうのをすればいいと思う? 」 考える習慣を付けるような声掛けをするのも、香鈴の今までの経験の賜物だ。  自分で考え、それを相談し、不安を払拭する。出来たことや知っていることは一言褒めることで、崩壊している自信を徐々に再構築していく。  障がいを持つ人は、どうしても健常者よりも自信を持つことが難しい。そして、成功体験も少ない傾向が強い。  小さな自信を持つだけでも、世界は変わって見えるものだ。香鈴は和也にほんのわずか自信を持たせて、今の世界からまた1歩進んだ世界を見てほしいと、彼と出会って以来願っている。 「挨拶って、おはようとかこんにちはとか? 」 和也の中での挨拶は主に家族間でやり取りされる、本当に基本的なものしか種類がない。昔はあったのかもしれないけれど、いろいろなことが起こりすぎて、自分のことを他人に話す機会もなかなかなかったはず。もしかしたら、その部分の記憶が抜けてしまっているのかもしれない。 「いや、そういうのじゃない。校長先生の挨拶とか覚えてるか? 」 こういう時は、まず選択肢や種類があるということを知らせることから始める。 「覚えてる。長く喋る、暇なやつだ」 「そう。それも挨拶。和也がする挨拶は、あんたダラダラ長くなくていい」 簡潔な手がかりは、発達障がいと分類される脳の働き方をする人間にとって、とても伝わりやすくてわかりやすい。  香鈴の質問もまさにそれで、和也はストレスを感じることなく挨拶と言う言葉には種類があるということを、知ることができる。 「楽団員とこれからひとつの曲を完成させていくわけだから、“これからよろしくね”って気持ちを込めて、よろしくお願いしますって名前に後に付け足すのが適切だと、俺は思うよ」 香鈴からの意見を、和也は運転しながら聞き入れて、何も言わずに自分の中で噛み砕きながら消化していく。しばらく無言のまま運転し、山越えを終えた頃。 「そうか。一緒にやっていくから、よろしくねって意味か。挨拶には、色んな種類があるんだね」 和也は香鈴の言っていたことを、自分なりに噛み砕いて飲み込んだ。 「そう。日本語は1つの単語に色んな意味を持っていることが、思っているより沢山ある」 和也が沈黙していた数分間、香鈴は和也に声をかけずに答えを待って、彼の意見を聞いて自分の意見を伝える。“待つこと”は、特に発達障がいと言われている人にとって大切な間合い。答えを急かすと気持ちが焦ってしまって、深く考えた最良の答えにたどり着けない可能性が非常に高い傾向がある。 「そうだね、知らなかったなぁ」 和也には和也のリズムかあって、それを理解しつつ待ってあげる。  それが恐らく今の和也にはとても大切なことなのだろうと、香鈴は頷く和也の横顔を眺めて自分も一緒に頷いた。  香鈴が和也の軽トラに乗ってホールに向かっている最中、楽団員はいつもより少し早く全員が練習ホールに集合していた。これはあかりからの声掛けで実現した、和也に対する声掛けや接し方についての注意点を知らせるための事前の話し合い。  和也の存在を認めないという人間は幸いいないようだが、偏見は言わずもがな根深い。話し合いを始めて、早い段階で「和也の障がいは、話が通用したいのでは? 」という声が上がった。  それを封切に、楽団員たちの中にある不安や予想がいくつか上がってきた。少しざわつき始めたので、あかりがそれを制止して気になることを挙手して行ってもらう形をとる。  まず、若い女性団員の手が上がる。彼女は見てすぐわかるほどの、不安げな表情だった。 「急に暴れたりしたらどうするの? 」 和也は小柄ではない。線は細いが、縦がある。細身だから手足も長く見えるし、彼も男ということは、暴れだしたら誰が制止するのかという不安はあって当然。 「急に暴れるような性格ではないと思うけど、もしも何かあったら泉君が和也君を抑えてくれます。後で確認を取って、和也君がパニックになった時の対応について再度確認しておくから、不安にならなくても大丈夫です! 」 あかりからの返答に、すべて納得しているという表情ではない。ただ、不安は軽減されたようで、この点について不安を感じていたであろう人たちの表情が少しだけ和らぐ。  次に手が挙がったのは、少し気難しい男性団員。彼はあかりから指名を受けるとスッと立ち上がり、なぜか最初から喧嘩腰に話し始めた。 「話が通用しないとか空気が読めないってネットで見たけど、そんな人をこの中に入れて雰囲気が壊れたらどうするんです? 演奏会そのものができなくなってしまうのは、非常に困ります。それにピアノの少年の障がいは、犯罪者も多いと言われてますよね。そんな人を信用して、こちらに害はないと言い切れますか? 」 彼はおそらく、和也の存在そのものが受け入れられてない。前回の演奏を聞いていた人間の中に、彼は居なかった。以前飲み会で話していたが、親戚に障がいを持っている人がいて、暴れて叫んで本当に手を焼いたと話していたと、あかりも把握している。  きっと彼は彼なりに大変な思いをしてきたのだろう。彼の意見の全てを、否定するつもりはない。 「和也君は、良くも悪くもとても素直です。空気を読むことはたしかに苦手で、もしかすると無意識に失言をしてしまうことも、あるかもしれません。でも、相手の表情を見ていれば、悪意のある言葉ではないことは伝わってくるはずです。犯罪者が多いという記事もありますが、健常者の犯罪だって日常茶飯事でしょ? 障がいがあるイコール犯罪者予備軍というわけでは、私はないんじゃないかと思っています」 彼には彼の過去があって、それをあかりは見てきたわけではない。だからすべてを否定するのではなく、自分の意見を彼に述べた。当然彼は納得していなかったが、自分も偏見の心を持っていることは自負しているようで、これ以上の論争には発展しなかった。  いくつかの質疑応答を行い、あかりは最後に数名まだこの席に居ない楽団員を除いて、今いるメンバーに声をかけた。 「和也君はとても怖がりで、最初のうちはなかなかみんなの中に入っていけないかもしれません。彼のペースに合わせて、少しずつコミュニケーションを取って、信頼関係を築いて素晴らしい音楽を作っていきたいと思っています。私一人の力では、音楽は完成しません。どうか、みんなの力を貸してください! 」 あかりは楽団内で指揮者という立ち位置に居るが、絶対的な権力や全員を引っ張っていく統率力には欠けている部分が多い。それはあかり自身が重々承知している部分でもあり、これからの彼女自身の課題。  今その課題のすべてを一瞬にしてクリアするということは、やはり難しい。だから、あかりは楽団員たちに、誠意を込めて頭を下げた。  少し楽団員たちの間いざわめきが起こったが、数名から湧き上がった彼女への協力の意の拍手がちらほらと起こり始め、それは徐々に数を増し、全員とまではいかないが同意の拍手を受けることができて。ようやくあかりの背負っていたものが、少しだけ軽くなった。  あかりが事前に楽団員に和也のことについて話をしているということは、香鈴も知っている。このことを和也に伝えようか一瞬迷ったが、和也はおそらく近年まれに見るくらいに緊張しているのではないかと思い、香鈴は自分たち以外の一部の人間を除いてメンバーがホールに入っているということを伝えなかった。  楽団が練習を行うホールに和也の軽トラが入った時、前回よりも明らかに多い量の車がすでに駐車場に入っていた。 「時間は余裕があったはずなんだけど」 和也は不思議そうにつぶやき、軽専用の駐車スペースに、バックで軽トラを鎮める。 「遅刻じゃないから大丈夫さ。運転、ありがとう。行けるか? 」 サイドブレーキを引き、車のエンジンが止まった。香鈴の声掛けに、和也は何も言わずに頷いた。  和也と香鈴がホールに入ると、楽団員たちは各々の楽器のメンテナンスや雑談をしていて、とても和やかな雰囲気だった。二人が入ってきて全員の視線が集まったが、刺さるような視線は数少ない。  彼らの耳は確かなのだ。先週の和也の演奏を聞いていた人間は、彼の実力がいかほどかわかっている。発達障がいという点はやはりネックに思っている人もいるが、それを不快感として露わにしている人間は、見たところ少ない。  和也はやはりホールに入った瞬間、目を丸くしていた。ホール内に居た人間の数に、素直にひるんだ。前回立ち聞きしていた人数よりもたくさんの人が、こちらを見ている。逃げるわけにもいかず、和也の呼吸が浅くなる。  和也の前を歩いていた香鈴は、和也の様子を察し、それとなく和也の手を握った。和也の手は冷たくて、香鈴の手のひらの体温を見る見るうちに吸収していく。 「和也」 香鈴からの声掛けにさえ、和也の肩がビクリと跳ねる。 「……は、い」 声が震えていた。どうしようかと香鈴の脳が走り始めたと同時に、あかりの声が耳に飛び込む。 「和也君! 」 再度和也の肩がビクッとはねて、自分の名前を呼んだ先の人間が和也の目に映る。 「戸高せんせ」 小さな声でつぶやくと、ほんの僅か和也の表情が緩くなった。  あかりは香鈴と和也の元に駆け寄り、楽団員に声をかけた。 「紹介します! ピアノを弾いてくれる、恵実和也君です! 」 もっと穏やかな形で自己紹介に流れを持っていきたいと思っていた香鈴の予定は、ものの見事に一瞬で崩れた。それは構わないが、いわゆる“普通の流れ”に和也がついてくることができるのかが気がかりでならない。香鈴が隣の和也をそっと見上げると、和也は一瞬ぽかんとしてしまっていた。 ―助け舟を…… 出そうかな。と思っていた時。和也の表情がハッとして、小さな声で「えっと」とつぶやいて。 「め、恵実和也です、あの……、よろしくお願いします! 」 和也は全員に聞こえるようなしっかりとした声で自己紹介をして、思いきり頭を下げた。  健常者のそれとは、やはり雰囲気は違う。だが、何かおかしかったわけではない。楽団員たちからは、柔らかな拍手が送られた。恐る恐る頭を上げた和也の前には、数名を除いてこちらに微笑みかけてくれている大人がたくさんいて。あかりと香鈴はもちろん、和也自身も安堵の息をついた。  和也の自己紹介が一段落して練習開始時間が迫ってきた。もうすぐ始めようかというタイミングで、数名女性団員が入室した。  なんとなく楽団の雰囲気が重くなったのを、和也は敏感に感じ取る。あの人は何なんだろうかと、先頭を切って歩く女性をじっと見つめた。 「あんまり見ない方がいいよ」 楽団の女性が和也にそっと声をかけた。振り向くと女性は和也の耳元に顔を近づけて、今入ってきた女性たちを盗み見ながら声を殺す。 「あの人たち、いっつもあんななの。目が合うといちゃもん付けられちゃうから、じっと見るの良くないよ」 楽団員の女性からの忠告を聞いて、和也は彼女に会釈して感謝していることを伝えた。彼女たちは、部屋に入ってきた瞬間から怒っている。いつもあんなに怒ってるのだろうか。何にそんなに怒ってるんだろうかと、和也の頭の中はそれがひとしきり渦を巻いて知らぬ間に渦は消えていた。  練習開始時間になり、各々自分の楽器を手に持ち場に着く。今日はピアニストが居るからと事務員と話を付けていただけあって、小さなグランドピアノも設置済。  ピアノの近くには指揮者のあかりが立っていて、楽譜を見ながら頭の中で予行練習をしていると、和也から服の裾をチョンチョンっと引っ張られて。 「どうしたの? 」 和也の方を見て声をかけると、ピアノの椅子に座った和也の目が、爛々と輝いているではないか。 「ちょっとだけ弾いていい? ちょっとだけだから」 自宅と学校以外のピアノに触れるのは、恐らく初めてだ。このピアノはどんな声で歌うのか、和也はピアノに触れたくて仕方なくい。 「ちょっとだけならいいよ」 こんな表情の和也は、初めて見る。 ―あらかじめピアノの音を確認するのも大事だし 和也が生き生きしているのは、あかりにとっては嬉しいこと。彼女からの了承を得て、和也が鍵盤に視線を落とす。楽団員から視線が集まっていることも気にせず、和也の指が鍵盤の上に乗った。  何を弾こう。  指はある程度作ってきてる。  今からリストを弾く。  じゃあリストを弾こうか。  いや、違う。  鍵盤がついてきてくれるか、確かめなきゃ。  ショパンにしよう。  ショパンはリストと友達だったらしいから。  この曲を弾く理由は、そう深くはない。  短くて音の多い曲が弾きたかった。  短くて音が多くて、今の空気によく合う曲。  得意とか不得意とか、そんなことじゃなくて。  “今”が似合う曲。  ショパン作曲、前奏曲第16番。  ああ、君はこんな声で歌ってくれるのか。  いい声。申し分ない。素晴らしいピアノだ。  僕の指の動きにもちゃんとついてきてくれる。  右手の猛烈な音の羅列。  ショパンのプレリュードの中でも、難易度の高い曲。なのに和也に指は、急いで走っている印象がない。 「笑ってる……」 楽団員の一人がつぶやいた通り、情熱的である音色とは不釣り合いなほどに和也の表情は柔らかく、まるでワルツでも弾いているかのような雰囲気。  先ほどまでどこかおどおどしていた幼げな少年とは、まるで別人のうよ。息をし忘れてしまうほどの迫力に、聴くもの全ての意識が吸い取られていく。  音大を出てない? 中学校で登校拒否?   そんなのどうだっていい。  今目の前にいる恵実和也という男は、骨太で貪欲な音を出す、麻薬のような音楽を奏でる男なのだと。  楽団員たちはそう感じた。  この子の技術は本物だ。自分たちも頑張らなければ、ピアノに負けてしまう。和也の演奏に拍手を送りながら、楽団に雰囲気が一気に引き締まった。  和也はというと、ピアノを弾いていなければやはりどこかおどおどしているし、落ち着きもない。椅子に座ったまま、拍手を送る団員達に何度も頭を下げていた。 「なんでショパンを弾いたの」 女性の怒気のこもった声を聞いて和也が振り向くと、そこには先ほど部屋に入ってきた女性が腕組みをして半ギレ状態で声をかけてきた。 「……弾きたかったから」 ありのままの事実しか、和也の頭には準備がない。彼女の登場に、楽団全体に冷たい風が吹き抜ける。 「そうじゃなくて。何か弾くなら何を弾けばいいかをここで権力がある人間に聞いてみようとか、そういうことは思わなかったの? 」 「戸高先生に許可を得ました」 「戸高さんだけがここで権力を持ってると思ってるの? 」 「指揮者は偉い人だと思ってます。貴女はこの楽団の人ですか……? 」 「新入りのくせに、私のところに挨拶にも来ないなんて。戸高さんから、何も教えてもらってないのね」 「……すみません」 内心おびえているが、和也の見た目や声色は今まで通りの無に近い。怖い人だと思う反面、一体何に対してそんなに憤慨しているのか。いろいろな疑問が浮かび、和也は彼女の顔をじっと見つめながら考える。 「私は木本。この楽団のコンサートマスターをしてます。失礼な人ね、貴方。じっと見ないでくれる? 」 「恵実和也です。よろしくお願いします」 和也の挨拶は、今回はこれで固定なのだ。じっと見ないでといわれて、初めて自分が彼女をじっと見ていたことに気が付いた。  先ほどまでの引き締まった心地よい緊張感が、ピリピリとした不穏なものにほんの一瞬で変わった。  木本が席に着き、練習開始時間を少しオーバーしてリストのコンチェルトの練習を開始した。  そして、想像とは違ったハプニングが、楽団員と和也に降りかかる。  和也の視線が指揮棒から離れない。  手元は相変わらずミスなく弾けているし、目を閉じていれば文句なしだが、目を開けてしまうと和也はずっと指揮棒に視線が向いているのが見てすぐにわかってしまう。  楽団員やあかりや香鈴は、色々なことを想定していた。だが、こんなハプニングが起こるとは思っていなかった。今までの遅れを取り戻すことができるかもしれないと楽団員もあかりも思っていたが、和也の視線の件に関して、まず話し合いを行わなければならない。  練習を早めに切り上げて、緊急の楽団内会議を行うことになった。  円になって全員で座り、あかりが和也に問いかける。 「どうして指揮棒だけを見ちゃうの? 」 あかりの質問にも、和也は委縮してしまい、すぐに答えられない。自分に責任があることは、彼だって重々承知している。 「……動いてるから。目が行っちゃうみたいで……」 和也自身も、まさかこんな問題を発生させてしまうとは思っていなかった。 「毎日の練習で、メトロノームをどう使ってたの? 」 楽団員からの質問に、和也はうつむき加減に応える。 「メトロノームは、テンポが掴めればいいから。最初だけつけて、リズムが取れたらすぐ止めてます。家では一人で練習してるし、メトロノームもこの使い方でしか使ったことがないです」 和也が悪くない、といえばそれは嘘なのだろう。だが、和也の何が悪いかといわれると、視線以外は文句はない。せっかく出会った素晴らしいピアノ弾き。楽団としても、彼をそう易々と追い出すつもりはない。 「デジタルのメトロノームも、そうやって使ってきた? 」 「タイマーみたいなメトロノームは、使ったことがないです。今まで自分の部屋でしか弾かなかったから、指揮棒に釘付けになると僕も思ってませんでした」 「鍵盤を見とけばいいんじゃないの? ミスタッチの防止の為にも」 「鍵盤は見なくても弾けるし、見ない方がいい音がでるので……」 会議をしたところで、打開策が見いだせるわけではない。次回までに楽団全体で、打開策を打ち出す方向で話がまとまった。  いったん練習は切り上げたが、時間が余っている。今まで練習不足だったため、大多数の人が最後の通し練習を希望したため、最後に一度リストのコンチェルトを弾くことになった。  最後の通し練習の前に、木本が和也のところに歩み寄っていく。 「この子どこの音大でてるの? 背中丸まってて、お客さんが見た時に不愉快な気分になるんじゃない? 」 確かに和也の背中は、演奏中猫背だ。基本的にピアノは、背筋を伸ばして演奏する楽器。和也の演奏方法では見た目が良くない。 「それに視線の話がさっき出たばかりなのに、それを改善しようって気持ちが態度から全く私たちに伝わってこないんだけど。やる気ないなら帰ってくれていいのに」 和也の表情やものの言い方が飄々としていたことに対して、木本は文句をつけた。 「……次までになんとかします」 和也は木本に対して怯えてしまって、小さな声で彼女の罵声に答えている。ひどい現場だと思いつつも、木本の火の粉がこちらに飛んできてさらに炎上してしまうことを楽団員たちは嫌気がさすほど経験してきた。申し訳ないと思いながらも、和也に助け船が出せない状態だった。  それからもことあるごとに演奏が止まって、言いたい放題木本は和也に文句をぶつける。和也は口答えすることもなく、「すみません」とすべて謝ってばかり。 「あとね、音の入りがガサツ。一体どんな先生に指導されれば、そんな汚い音が出せるの? あんたも三流なら、先生も三流なんでしょうね」 木本のこの発言に、和也の目の色が変わる。 「先生は昔亡くなりました。先生は最高の指導をして僕にピアノを遺してくれた、素晴らしい人です。先生に言ったことを、今すぐ取り消してください」 今まで自分に歯向かった人はいなかったのに、この障がい者は自分に歯向かってきた。木本の頭に一気に血が上っていく。 「はぁ? 先生が三流なのは間違いなの? 一流の先生から指導を受けて、あんたみたいな出来損ないが完成するなんて思えない。じゃああんたの先生は、先生自身は素晴らしくて指導の方は三流ってことなのかしら。私一流しか知らないから、わからないわ」 和也にとって、一二三は絶対的信頼を寄せている存在。彼を罵倒することは、絶対に許せない。 「僕の知ってる一流の音色は、貴女の音色と違ってる。わざと音を外して楽団全体の音の質を落としたり、高まった士気を台無しにしたり。そんな人は、演奏者としても人間としても、一流じゃない」 練習中、木本は確かに音色をわざと外して、楽団全体の音の質を下げている。和也の耳はそれを聞き逃さなかった。 「私が一流じゃないっていうの!? あんたじゃ手も足も出ないハイレベルな大学を卒業して、業界でも有名な先生から指導を受けてきたのに? どんな指導を受けたら、こんな失礼な人間になるのかしら。何て名前の先生? まぁ、名前を聞いても私は知らない人だろうけどね」 木本には、自信があった。ちょっと音色が良くって少しレベルの高い音楽ができる人は、世の中にごまんといる。自分の習ってきた有名な師匠の足元にも及ばない人が指導者だったに違いないと、木本は高を括っていた。 「僕の先生は、恵実一二三です。僕は一二三さんの孫で、弟子になります」 恵実一二三。頑固で弟子を取らないことで有名だったと、誰もが知っている。一流の指揮者。誇り高く意志が強く、誰にも媚びず弟子入り志願者を断り続けてきたその男の名前は、楽団内に小さなどよめきを生んだ。  もちろん木本だって一二三は知っている。知っているというよりも、過去に木本は一二三から弟子入りの志願を断られた経験がある。 「僕はたしかに三流かもしれないけど、一二三さんは一流です。だから、先生に対して言ったことは、今すぐ取り消してください」 「いやよ! 」 木本の気持ちは、一気に乱れた。恵実一二三は、弟子を遺さなかったと聞いていた。だから、安心していた。あの人に振られたのは、自分だけじゃない。全員弟子にしてもらえなかったのだと、言い聞かせてきたのに。和也はそれを、ぶち壊した。 「じゃあ取り消さなくていいから、コンマスである自分の立場を考え直してください。これじゃ楽団の音楽を、貴女一人が台無しにしてしまう」 「なんですって? 」 「貴女はコンマスなのに、楽団全員の足を引っ張ってます。汚い音をわざと出す人は、全員で作り上げる音楽は向いてない」 楽団員が言いたかったこと。それを和也は、迷いなくと言ってしまう。言いたくても、言ってはいけなかったこと。それは、演奏会にも大きく関わることだ。 「和也君、もうやめて」 あかりの静かな制止。 「ダメだよ。今言わなきゃいけない」 その意図がくみ取れない和也。 「和也君」 「今言わなきゃ。本当なら、この楽団の人はもっときれいな音楽が作れる。それに、」 「和也君」 「戸高先生だってわかってるんでしょ? この人本当は、」 「和也君! もうやめて!! 」 悲鳴のようなあかりの怒鳴り声が、ホール内にこだました。 『どうしでてきないの! 和也!! 』 あかりのそれは、和也が幼少期に浴びた、母親からのそれとそっくりだった。  和也の唇は小さく震え、息が浅くなる。 ―マズイ…!  香鈴が和也のもとに駆け寄る。 「和也、大丈夫か? 」 香鈴の呼びかけに、和也は目を泳がせたまま何度もうなずいた。和也の手を握れば、手は冷たくなってがたがたと震えている。泣き出しそうな彼の瞳を見て、あかりはハッとした。 「ごめんね和也君、怒鳴るつもりは……」 あかりが和也の顔を覗き込むと、和也はあかりから顔をそらした。 「すみません……」 和也の声は小さくて、あかりから逃げているのは誰が見ても明らかだった。  これまで築き上げてきた信頼関係が、一気に崩壊してしまったような気がした。もう一度、和也に話しかけようと、彼の顔を覗き込んだ瞬間。和也はあかりから、大きく視線をそらしたまま小さく横に首を振った。 「大丈夫だから……、こないで、ください……」 敬語で。力なく、拒絶。今のあかりへの和也が出した答えは、これだった。涙が出ないほど、ショックだった。あかりは茫然と立ち尽くしてしまい、コンサートマスターの木本は自分は悪くないとでも言いたげに足を組んで和也を睨んでいる。  まるで時間が止まった葬式のような、冷たい時間が数分すぎた。 「帰ろうか」 楽団員の誰かがそう提案し、全員静かにそれに乗る。この状態で練習の再開は見込めない。練習時間はもう終わりに近い。楽団員たちが動き始めて、少ししてあかりは全員に頭を下げた。来週までに持ち直すという趣旨のことを伝えて、楽団員たちを見送った。  持ち直す。どうやって?   自分の発言が、憎らしい。  玄関まで楽団員たちを見送りに行って練習ホールに戻ると、和也と香鈴は隣のピアノ練習室に入っていて、木本が帰り支度をしていた。 どこからどう見ても不機嫌な表情で、木本はあくまでも自分へに非礼を詫びない和也に非があるというスタイルを、崩していない。 「木本さん、私……」 あかりの声を遮ったのは、練習室から流れ始めた和也のピアノだった。  ドビュッシー作曲のレントよりも遅く。  ロマンチックで哀愁の漂う音色。  ギスギスとした二人の心に、ピアノの音が染み込んでいく。  これではいけないと、お互いに分かっているのに。  一人は意地を張ってしまい、一人は自分の技術や恵まれた環境に自信が持てないまま、相手を押さえつけて押さえつけられる関係が出来上がってしまっている。  最初から歪んでいたかもしれない関係だが、それを楽団全体にまで広めてしまっているこの状態は、良いものとは言えないこともお互い重々承知していた。  和也の今回の発言は、楽団が抱えている問題そのものだ。  みんながあえて触れなかったその部分にメスを入れたことを、ただタブーに触れただけとしてしまうのか、これをきっかけに変化させていくのか。  あかりは勇気を振り絞って木本に話しかけようとしたら、それを無視して彼女はピアノ練習室に入って行った。  ピアノを弾いていれば、少し気持ちが落ち着く。これは和也自身がよく分かっている。  演奏が終わって少し気持ちが落ち着いた段階で、練習室のドアが開いた。そこには木本が立っていた。 「さっき言いかけたこと。最後まで聞いてあげる」 いきなりそんなことを言われても、木本の言っている“さっき”がいつで、“言いかけたこと”なんてあっただろうかと、和也はおびえながらも小首をかしげた。  さっきの自分が何を言いたかったのか忘れたけれど、これだけは伝えなければと思っていたことならば和也の頭の中にしっかりと残っている。 「多分、あなたは本気で弾いたらものすごくうまいのにって。言いたかったんだと思います」 和也のそれを聞いた木本は、小さく息をついた。 「戸高先生と貴女が、なんで仲が悪いのか、僕にはよくわからない。でも、理不尽に怒ってると、貴女がが損をすると僕は思います」 木本はほんの少し口元を緩ませて、小さく数回頷いた。 「……似てるわね。恵実先生と。性格とか、ものの言い方とか」 自分は弟子を取らないと言った時、一二三は木本にさらに声をかけていた。 『君は素晴らしい音色を奏でられるのに、損をしている。まず性格が損だ。相手を追い詰めて怖がらせるのは、君の悪い癖だ。そこを改善すれば、きっと君はさらに羽ばたくことができるだろう』 弟子入り志願をしたときに返ってきた言葉を聞いて、なんてデリカシーのない人だと憤慨した。だが、経験と年齢を積むうちに、一二三の言っていたことが徐々にわかってきたのもまた事実。  しかし、指摘されていた部分の改善は簡単ではない。素直になるとか、相手を尊重した答えを導き出すとか。気恥ずかしくて、妙な感情が邪魔をして、悪い癖が改善できないまま、ずるずるとこの年齢まで来てしまった。 ―いい加減、変わらなきゃならないってことなのかしら  自分を見上げている表情の読み取れない和也を見ていると、木本はずっと力が入っていた肩からスッと抜けていくような感覚を覚えた。 「一二三さんのこと、知ってるの? 」 和也の目は、おびえながらもまっすぐに木本を映す。 「ええ。大学生の時に少しお世話になって。さっき、先生のことを悪く言ってごめんなさい。恵実先生はとても素晴らしい先生だったわ」 木本のそれを聞き、和也はすぐに嬉しそうににこりと笑った。 「そうだね」 こういう時にどんな言葉を相手に返すべきなのか、やっぱり和也にはわからない。わからないけれど、嬉しい気持ちは今のこの笑顔に十分に反映されている。  あどけないその笑顔を見て、今まで楽団内でにこりともしなかった木本の硬い表情にもわずかに笑顔が滲んだ。  確かに和也は、失礼なことを言ったかもしれない。それがわざとではなくても、わざとじゃないからと許すことができるものと、そうでないものも実際存在している。  木本は和也を許すつもりはなかった。和也の言ったことは木本にとっては許しがたい失礼なことだったし、自分の存在にひるまない和也が面白くなかった。  態度だけではない。洗練された技術も、音楽を心から愛しているという音色さえも、とにかく和也が目障りだったし、楽団から追い出したかった。  でも、今は違う。この短時間で自分に何が起こったのかと、木本自身が不思議だと思う節はたくさんある。すっかり穏やかになったこの気持ちを大切に心に仕舞って、木本はピアノ練習室からホールに戻っていった。  木本がホールに戻ると、隅にあかりが膝を抱えて壁にもたれかかって座っていた。 「戸高さん」 木本に声をかけられ、あかりは顔をあげて勢いよく立ち上がる。木本から手招きをされて、あかりは急いで彼女の元へと駆け寄った。  何を言われるのだろうかと、怖い気もした。だが、怖がってばかりもいられない。怖いと思いつつも、あかりはあかりなりに腹をくくる。 「今まであなたに対して威圧的な態度をとってきてごめんなさい。この楽団を次回の練習から良くしたいから、気になったことははっきりと伝えようと思うんだけど」 威圧感は満載だが、今まで聞くことのなかった謝罪の言葉と明るい展望のある木本からの提案に、あかりは目を丸くした。 「……も、もちろんです! 私こそいつも木本さんの気に障ることばかりしてしまってごめんなさい」 急いであかりが返事をすると、木本は深いため息をついた。 「戸高さんのそういうところが好きじゃないのよ。いつでも自信がなくて、相手の顔色ばっかり窺って。そんなんじゃ楽団の士気が上がらないでしょ。指揮者なんだから、もっとどっしりしなさい」 木本の本音を聞いて、あかりの背筋がすっと伸びる。 「はい! 」 あかりの返事を聞いて、木本はうなずいて部屋を出た。 「来週から私も本気で練習する、突っ込まれないようにもっと勉強しといて」 上から目線の言葉ではあるが、今までよりも血の通った言葉に、あかりの表情が晴れ渡る。 「はい! 」 あかりは木本の背を見送って、和也がいるピアノ練習室に向かった。 ドアをノックして、静かに入室する。 「和也君」 ピアノの椅子に座っている和也は、あかりと目を合わせようとしない。 「怒鳴ってしまってごめんね。わざとじゃなかったけど、びっくりしちゃったよね。また明日からお弁当買いにお店に行くけど、また私とお話ししてくれる? 」 あかりのそれを聞いても、和也はあかりの顔を見ずに何度か頷いただけだった。  各々帰宅して、あかりは香鈴に今後の和也との関係の修復方法についてメールで相談した。 『焦ってたくさん話しかけても和也はきっと逃げてしまうから、今まで通りに接していくのがいいと思う』 香鈴からのアドバイスしか、今のあかりの頼りの綱はない。 『私から声をかけても大丈夫かな』 これ以上和也と関係を悪化させたくない。早く仲直りしたい、前みたいに話したい。もっともっと話もしたいし、本当はもっと仲良くなりたい。焦りは禁物と言っても、あかりの心中は穏やかではいられない状態なのだ。 『大丈夫と思う。でも断言はできない』 香鈴からにメールの回答に、あかりはため息をこぼした。 『ありがとう。また明日から頑張ってみるよ』 『頑張りすぎると逃げてくから、普段通りが一番いい』 頑張るって、具体的に何をどう頑張るのだろうかと思いつつ、あかりは香鈴とその後も少しメールのやり取りを続けた。  メールが終わり、シャワーを浴びてベッドに横になる。木本との仲が改善されそうな雰囲気になったのは楽団として大きな一歩なのだが、和也からあんなに嫌われてしまい、あかりの個人的なショックは大きいまま。  敬語で返しがあった後、言葉のやり取りはしていない。このまま嫌われてしまうのではないかと思うと、憂鬱を通り越して涙が滲みそうになる。  また和也は、自分に笑いかけてくれるだろうか。このままずっと無視されてしまって、疎遠になってしまうのだろうか……。  楽団の明るい展望とは裏腹に、あかりの心は晴れないまま。  ―どうか和也君と仲直りできますように  ベッドに寝転んだまま普段しない神頼みをして、あかりは部屋の電気を消した。
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