約束

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約束

 和也となんとか話がしたい。  あかりはまず、和也とゆっくり話をすることができる関係を持つことを考え始めた。あの怯えた表情を見る限り、普通に話しかけても絶対に逃げられてしまう。  南教頭から勧められたように、大神牛乳店の店主に相談するのが一番早いのかもしれないが、仕事終わりに立ち寄るとなると一般家庭では早ければ夕食の時間帯となる。  でも、迷っている時間は、あかりにも楽団にもない。その日の仕事が終わって自分の車に乗って、すぐにあかりは大神に電話をかけた。 「はいはい」 電話の向こうでコール音が数回なったのち、大神の声があかりの耳に届いた。 「戸高です。先ほどは、お世話になりました」 「いやいや、先生が約束を守ったから和也のピアノを聴くことができたんだよ」 「そのことなのですが……。彼と話しがしたいと思ってるのですが、なにか良い方法を教えて頂くことはできないでしょうか? 」 あかりからの申し出に、大神は長い溜息の後にほんの数秒沈黙した。その沈黙は、あかりの肩に重くのしかかる。 「……先生、和也のあの表情を見てなかったわけじゃないだろ? 」 大神の低い声。あかりの全身の血液の体温が落ちていく。 「今すぐ話す方法があるのなら、俺だって実践してるさ」 これは大神の心の底にある思いであることが、あかりの胸に痛いくらいに突き刺さってくる。  二人の間に、また重い沈黙が流れる。今すぐに和也と会話をするのは、やはり無理な話なのだと。沈黙の間、あかりは痛感した。 「……まずは顔を覚えてもらうことから始めるといい。顔も知らない奴から話しかけられると、俺たちだって怪しいと思うだろ? 和也は警戒心が尋常じゃないから、まずは顔を覚えてもらって、無駄な警戒心を解くこと。先生の期限にすべてが間に合うかどうか、申し訳ないが今の状態では俺からはなんとも言えない。和也の心の扉は硬い。でも突破口は絶対にあるから、毎日店に顔出して和也に覚えてもらえ。話しかけずに和也をそっとしておくのが、多分近道だ。和也は自分のタイミングでしか動けないから」 大神からのアドバイスは、多分的確なのだろう。和也という少年のことをよく知っているし、それ以上に彼を大切に思っているのが声から伝わってくる。  しかし、あかりにはわからないことがあった。 「どうして彼に話しかけるのは遠回りになるんですか? 話してみなければわからないこともあると思うんですが」 話してみなければわからないこと。それは山のようにある。個人の性格なんて、外見だけではほとんどが憶測であり、その憶測だけで人を判断してしまうのは良いこととは言えない。  そう思う反面、技術の高さやどんな曲が弾けるのか、今回楽団で演奏する協奏曲が弾けるかどうかということを一気に聞いてしまいたいという気持ちだって抱えている。 「あれだけ他人に怯えてて、話しかけられてニコニコ話すと思うか? 先生、和也の脳は俺たちと動き方が違うんだ。頭の中身は、目で見て確認することができない。もしも仮に和也に話しかけて、和也がニコニコ対応したとする。先生や俺だと話してみて良かったと思うかもしれない。でも和也はそうじゃないんだ。和也にとって、自分の手札にないことが急に起こるってことは、倒れ込むほどのダメージを与えてしまう。和也の手札の中に、自分の存在を入れること。それから“この人に話しかけても大丈夫かもしれない”と思ってもらえることが、和也には負担がないんだよ。先生は和也にピアノを弾いてもらいたいと、頼む立場だ。それならば相手に合わせるのが礼儀なんじゃないのか? 」 大神の言っていることは正しい。正しいからこそ、いつも食らいつく時に出る“だって”とは“でも”と言った言葉さえ出てこない。 「その通り、です……」 自分の都合を相手に押し付けようとしていたことが、あかりは恥ずかしかった。噛みついていい場面ではない。噛みついたって敵わない。自分がどこか間違っていることくらい、あかりもわかっていた。 「まあ気を取り直して! 来週から朝弁当買いがてら、和也に会いに行ってみればいいよ。弁当並べる時間だと絶対あいつは店に出てるから。それ以降は部屋に戻るから、会いに行ってもいないことが多いからね。頑張んなね、先生! 」 明るい声で大神はアドバイスとエールを送って、あかりとの通話を終了した。そして大神は、そのまま携帯をいじって。 「もしもし、俺です。こんばんは」 彼はある人物に、電話をかけ始めた。  週末にオーケストラの練習会があり、その時演奏会についての会議も行われた。昨年の曲にするのか、ピアニストを見つけるのか。その話になった時。 「ピアニストの候補を見つけたので、もう少し時間をください! 」 あかりは出席したメンバー全員に頭を下げた。 「いつ練習に合流できるの? 」 「どこの大学出身? 」 「何歳? 」 楽団員から矢継ぎ早に質問が飛んでくるが、どれにも答えることができない。 「技術は確かです。とてもきれいな音を出す男の子で……、えっと」 音大は出てない、18歳の青年です。なんて、言っていい雰囲気ではない。だがもし万が一彼がここで演奏してくれるのであれば、あらかじめ団員たちに伝えておかなければならないことがある。 「彼は自閉症スペクトラム障害という特性を持っています。大勢の人の中に入ることが少し苦手なようです」 あかりのそれを聞いたとき、楽団員たちからは困惑の表情と深いため息が漏れた。  とりあえず8月いっぱいまでにピアニストが練習に合流ができなければ、昨年演奏した曲に変更するということで話が固まった。  会議そのものはあっさりとしていたが、楽団員たちの表情はどんよりである。どうしてそんな人を見つけるんだ。もっと他にいただろう。そんな雰囲気が漂いつつも、楽団員たちは帰り支度を始める。  あかりは小さくため息をついて、戸締りの確認を始めた。 「あかりさん! 」 名前を呼ばれて振り向くと、ティンパニー担当の青年が立っていた。 「(いずみ)くん……。どうしたの? 」 笑顔を作って彼に対応する。 「ピアノストなんですが、もしかして恵実駄菓子店の子ですか? 」 彼の表情は、どこか苦しそうに見える。 「そうだけど、どうしたの? 」 不満を言われるのかなと、あかりは内心身構える。彼はそういうことを言うタイプではないが、今は何が起きるかわからない。 「和也、ですよね? ピアニスト」 「知ってるの? 」 自信なさげなあかりの返事を聞いて、彼の表情が一気に晴れていく。楽団に居る時はあまり喜怒哀楽を出さないから、彼の明るい表情にあかりは少し驚いてしまった。 「知ってます! 和也! ピアノ、辞めてなかったんですね! 何か話しましたか? 」 「いや、まだ全然。一度だけ姿は見たけど、怖がられちゃって……」 「やっぱりそうですか」 彼は恵実和也を知っている。頭でそう理解した瞬間、あかりの心が一気に明るくなった。 「彼を知ってるってことは、話もできるの? 」 「できないですよ。俺のことなんか覚えてないかもしれないし。小学校が一緒だっただけなんです。別に仲が良かったわけじゃないし、和也を守ることもできなかったから」 彼は苦く笑っていた。 「もし和也と話せるかもしれない機会があったら、俺にも声をかけてください」 彼はあかりに手を振り、そう言い残して楽器の片づけに入った。  彼が敵ではないことに安堵し、あかりは少し心が奮い立った。 ―まずは顔を覚えてもらおう 遠い道のりにしか思えないが、アドバイスは聞いておくに越したことはない。あかりは翌週から恵実駄菓子店の弁当を買う決心をした。  朝。いつもよりも30分早く家を出た。車ての移動は短時間で済むが、小さな抜け道を使えば、自転車でも案外移動時間は短縮できる。細い抜け道を自転車で縫うように進み、商店街に入った。朝早く家を出たが、外は想像よりも暑くて、すでに汗だくだった。  恵実駄菓子店に到着したのは7時15分を少し回った頃。早めについたと思ったのだが、あかりの想像を超える人数のサラリーマンや学生が店の中に詰まっている。確かに恵実駄菓子店のお弁当は美味しいという評判ではあるが、こんなに店が混み合っているとは想像もしなかった。  満員電車よりも気持ち人数が少ない程度の混雑ぶり。あかりはお店の脇に自転車を停めて、意を決してその中に入って行った。  年始にバーゲンの混雑ぶりを取材しているのを、テレビで見たことがある。あんなところに絶対入りたくないと思っていたのに、自分の好きな服を取り合うわけでもなく、ただ販売している弁当を勝ち取るだけの戦。  身体がそんなに大きくないあかりにとって、男ばかりのこの弁当争奪戦は少々ハードルが高いものだった。いくら前に進んでも、弁当を置いてあるテーブルまで全く行きつかない。都会のサラリーマンは、これよりもひどい状態の電車に毎日ゆられているのかと思うと、自然と彼らを心から尊敬した。  弁当の追加がテーブルに出されて、また人が一気にテーブルに集まる。その集団に食い込みたいのに、押し寄せる男たちの荒波からあかりははじき出されてしまう。ここで弁当を買っておかなければ、あかりの昼食はなしだ。この近くには、コンビニさえもない。弾かれて弾かれて、それでも集団の中に挑んでいく。  必死で頑張ってみたものの、やはり体格差には敵わなかった。あかりは汗だくになって息が切れていたので、お店の隅で少し休息を取る。運が良ければお弁当が余るかもしれない。淡い期待を抱いていたら、家の奥から続いている廊下を歩いてきたおばあちゃんとパチンと目が合った。彼女は廊下の先に居る誰かに声をかけていたが、おそらく業務連絡だろう。 「はぁ……」 最後に一つ、余ればラッキーだ。店の隅にへたり込んだあかりは小さく息をつく。下を向いていると、色々な音が耳に入ってくる。誰かと誰かが話す声、たくさんの人の足音、レジを打つ音、そして外で鳴いている無数の蝉の声。  その音の波の中に、なんとなくぽつんと取り残されてしまったような気持になっているあかりの肩を、トントンと誰か叩く。移動の邪魔になってしまったのかと、あかりは顔を上げずに立ち上がった。 「すみません」 相手の顔も見ずにうつむいたまま謝罪すると、あかりの視界にスッとお弁当とそれを持っている肌の白い大きな手が入ってきて。パッと顔を上げると、一瞬和也と目が合った。  彼はあかりと目が合ってすぐに視線をそらしてしまったが、差し出した弁当を引っ込めることはなくあかりにそれを差し出したまま視線を泳がせている。 「私に……? 」 見上げた彼は、以前見たときよりもずっと背が高く感じた。あかりの声に、彼はうなずく。幼くも整った顔立ちは、カッコいいというよりもかわいらしいという言葉がしっくりくる。 「ありがとう」 偶然だったのかもしれない。お店の隅でへたり込んでいて、邪魔な客だと思われて。さっさとお店から出してしまいたいから、お弁当を渡してきたのかもしれない。それでもあかりは、和也の行動が嬉しくて。自然と笑顔がこぼれて声をかけた。  和也はにっこりと微笑んで弁当を受け取ったあかりを再度ちらりと見て、何も言わず表情も無表情に近い状態のまま小さく会釈をしてお店の奥に引っ込んでいった。 ―本当に何もしゃべらない…… 和也が立ち去って行くのを目で追って、あかりは会計の列に並んだ。  学校に到着したのは、朝礼ギリギリの時間だった。学校までの道のりが上り坂であることを、あかりは忘れていたのだ。山道を自転車をこいで登って、学校到着時にはまるで頭からシャワーでも浴びたような汗のかきっぷりだった。荷物だけ職員室に置いて、一度シャツを着替えた。  今日は職員のほとんどが学校での作業を予定しているため、職員室にはそれぞれの教科の教員がいる。  各々二学期の準備や一学期の反省などをしていると、いつもよりも早くお昼休みの時間が来た。あかりは和也から手渡してもらった弁当を机に出すと、通りがかった先輩が机のそれを覗き込んできた。 「へぇ~、恵実駄菓子店の弁当だ。あそこ混むでしょ? 」 彼は嘘をつかないが、失言も多い。 「はい」 あかりは正直、この先輩のことがあまり好きではない。今だって表情は引きつっていて、好きではないという雰囲気が周囲にも伝わっているにも関わらず、容赦なく弁当を観察している。 「あの店、中は狭いし建物も古いし、老人3人もいるし。それに若い子は自閉症なんだってね。ほーんと、大変だと思うよ」 他人事だから言いたい放題なのが、声色からひしひしと伝わってくるから、なおさら腹が立つ。 「子どものたまり場としても有名だよね。駄菓子なんて美味しいもんじゃないのに」 余計な一言という言葉が世の中には存在しているが、彼の話すことは大半が余計なことだ。 「でもさ」 イライラしながら彼の声を聞き流しているあかりの肩に、先輩の手が乗る。 「その弁当。ほんとに美味しいから。買う価値はあるよ」 そう言って、先輩はあかりのもとから去って行った。  先輩が自分の席に着くのを横目で確認して、あかりは弁当を開けた。ゆかりの詰めご飯、かぼちゃの煮つけに茄子の南蛮漬けとトウモロコシの天ぷら。キュウリと梅の和え物に、白身魚のフライ。蓋の裏に塩が付いていた。野菜のおかずが多めに詰められていて、おばあちゃんの家で食べたご飯を思い出す。 「いただきます」 割りばしを割って手を合わせて、まず最初にかぼちゃの煮つけがあかりの口の中に入った。  ホロホロと口の中でほどけていく、カボチャの果肉。甘辛いのにくどくない味付け。カボチャ本来が持っている甘さを感じることのできる、上品な煮付け。 「おいしい……! 」 先輩は無駄口だらけだが、やはり嘘はつかない。スーパーのお惣菜やお弁当の味を想像していただけに、そのクオリティの高い味付けは、いい意味であかりの期待を大きく裏切った。  その日からあかりは、恵実駄菓子店のお弁当を毎朝購入するため自転車通勤をすると決めた。男性には少し物足りない、女性には少し多い、絶妙な量。価格は決して安いとは言えないが、高いというほどでもない。素材の味が活きた野菜中心の、今の時代には珍しい優しい味付けの家庭的なお弁当は、ある程度の年齢に達していればその味の良さがしみじみと伝わってくる。  毎朝繰り広げられる、男性が圧倒的に多い弁当戦争の中に飛び込むあかりの姿は、駄菓子店の人間の目にも留まりやすい。女性が何日も立て続けにこの店の弁当を買いに来ることは、珍しくも新鮮なのだ。その姿が曾祖父母の目に留まった。  あかりが弁当を買い始めて4日目。今日も朝から暑くて、弁当を手にして並んでいる間も暑さで汗が垂れる。  あかりはいつも、最後に会計をする。選んで最後に会計をしてもらっているのではなく、もみくちゃにされてしまって気がついたら最後になっているのだ。最後尾に並び、腕時計に視線を落とす。時刻は7時40分。これはまた学校前の上り坂を立ちこぎで急いで登らなければ、始業時間に間に合わない。あかりの番が回ってきて、いつも通り会計を済ませて、店を出たときだった。 「お姉さん」 女性に呼び止められて振り向くと、若い方のおばあちゃんが凍ったペットボトルのお茶をもってこちらに微笑んでいる。 「これ、持ってって。いつもお弁当買ってくれて、ありがとうね」 そう言って彼女はあかりにペットボトルを差し出した。 「あ、ありがとうございます」 突然の彼女の行動に、あかりはひるんでしまった。 「また来てね。待ってます」 彼女はあかりに微笑みかけて、店に入って行った。  店の中に消えていったおばあちゃんは、背が小さくて柔らかい声質だった。店の中で彼女の声が和也を呼ぶ。彼女は今和也と会話をしているのだろうか……。ぼんやりとそう思いつつ、あかりは自転車を漕ぎだした。  翌週からあかりが恵実駄菓子店に入ると、先週ペットボトルを渡してくれたおばあちゃんが話しかけてくるようになった。  会計に並んでいる時に、ほんの一言二言、言葉を交わす。今日は暑いわね。帰り、早く終わったら寄ってね。どこにでもある、誰とでも交わしそうな内容の会話なのに、彼女と話しているとあかりの心は解けていく。この人がこのお弁当をお作っているのだろうと、なんとなく想像できる。  あかりが彼女と話をしている時、かなり高い確率で和也と目が合う。目が合った瞬間にフイっと視線をそらされて店の奥に逃げられてしまうことが多かったが、週を折り返すとあかりに和也が軽く会釈をするようになった。あかりもそれにつられて小さく会釈をして微笑むと、和也はまたフイっと視線をそらして店の仕事に戻っていく。  最初にあった時のような怯えた表情ではなくなっていたし、会釈のみではあるけれどやり取りが生まれたのは大きな進歩だ。  しかし、会話は依然として一言も交わせていないし、自己紹介もできていない。これもまた現実である。  もう少し待ちたい。でもこれ以上は待てない。楽団で決めた期限が見え隠れし始めた8月の初旬。あかりの気持ちは夏空とは正反対の、薄曇り状態だった。  週の終わりの金曜日。少し和也との距離は縮んだけれど、会話は全くできなかった。朝弁当を買って自転車で店を出て、学校までの坂道を登りながら大きなため息をついた。盛大なセミの声と風に揺れる木々の葉音にあかりのため息はかき消され、ため息そのものがなかったか事になってしまったように思える。  深く考えざるを得ないこの状況に、前を向いて元気よく頭を回転させるような気持にはなれず。誰かを頼って泣くわけにもいかないから。夏山のこのざわめきの中、あかりは心の中で、一度しゃがみ込んで少しだけ泣いた。  いつも通りの時間に店から人がいなくなって、和也は日課の店の掃除を始めた。弁当を山積みにしている机は、朝の弁当販売時間が終わると片づける決まりだ。広くない店の左半分を占拠してしまう机なので、駄菓子店を営んでいく上では邪魔になる。机は折り畳み式になっていて、古いものだからそれなりに重い。机の撤去とほうきで床を掃くまでが、和也の朝の仕事。  机を折りたたむため、和也は少ししゃがむと。机の下に何かが転がっているのを見つけた。  机の下に潜り込んでそれを手に取ると、首からかける何かであることが見てすぐにわかる。 ―戸高あかり…… 馴染みのある中学校の名前の下に書かれた、女性の名前。そして集金日に学校で見た、最近店弁当を買いに来ている女の人の顔。  あの学校の先生なのかと、和也は職員証を眺めて彼女が学校に居た理由が腑に落ちた。この時期は校内を外部の人がうろうろしているから、てっきり彼女も外部の人間だと思ってびっくりしてしまったのだ。 「どうしたの? 」 初音が和也の手に持っているものを見に来た。 「あら! さっきの人が落としていっちゃったんだわ! これがないと先生、困っちゃうんじゃないかしら」 職員証がどんな力を持っているのか和也にはわからないが、これがないと困ってしまうのは彼女がかわいそうだと思った。 「中学校まで届けてあげて、和也」 しゃがんだままの和也は、パッと初音を見上げた。一人で学校に行くのは嫌だと、目で訴える。 「大丈夫。もう怖くないから。南先生がいるでしょ? 」 たしかに南先生は学校に居るけれど、南先生が絶対に出迎えてくれるわけではない。首を横に振ろうとしたら、和也の両頬を初音の両手がそっと優しく包み込んだ。 「大丈夫。大丈夫だから。先生を助けてあげて? 車の免許、和也しか持ってないから、私やおじいちゃんやおばあちゃんじゃ先生を助けられない。このままだと、先生はきっと困ってしまう」 今までだったら、初音の手を振りほどいて横に首を振って部屋に走って戻っていたのに。“このままだと、先生はきっと困ってしまう”という言葉が和也の心にサクっと音を立てて刺さった。  自分が困っていた時、助けてくれた人はほんの僅かだった。助けてもらえない、救ってもらえなかった時の、心臓が握られるような思いが和也の脳裏によみがえる。  自分と同じ経験を、自分の知っている人にはしてほしくない。  和也は初音の目を見て一度頷いて職員証を握りしめて、立ち上がった。サンダルのまま走って店を出て家の裏に回り、軽トラに飛び乗ってポケットに入れっぱなしていた車の鍵を鍵穴に差し込んでエンジンを回す。 「和也、お出かけかい? 」 「気をつけて行っといで」 家の裏に置いてあった畑仕事用具の手入れをしていた曾祖父母から声をかけられ、和也は二人に手を振って車を出した。  できる限り車を飛ばして、学校へ向かう。普段使うアスファルトの道ではなく、学校に繋がる細い土の道を走る。軽トラは揺れるというよりも、もうスキップしているような状態で、上下左右に大きく揺れながら前進する。気持ちはそれなりに焦っているが、和也の表情はいつもとあまり変わらず涼しげだった。  学校に到着して、砂利の駐車場に軽トラを停めた。車が多い。今日は職員が多いのだと感じずにはいられない。職員証をもって車を降りて、小走りに校舎に向かう。運が良ければ南先生が職員室の勝手口から外に出ていて、空を見上げるているかもしれない。あの先生は、時間があると空を見上げているから。と、和也はそう自分に言い聞かせて、何とか自分の心を落ち着かせる。  幸い、職員室の勝手口の前に南先生が立っていて、空を見上げていた。空を見上げるのは、彼の趣味であり日課でもある。  南先生にこれを渡せば、家に帰れる。  でもどうやって渡せば……。  和也はここにきて、ようやく気がついた。しゃべらなければならない。家族以外と会話をしたのはいつ振りだろうか。それに気がついた途端、職員証をもっていない方の和也の手に、一気に冷や汗が吹く出した。  だがここまで来て、職員証を渡さないというわけにはいかない。いつも来ている女の人が困ってしまうのだから。心臓が口から飛び出しそうになりながら、和也は南先生のもとに歩いていった。しかし彼は、勝手口から職員室に戻ろうとしている。  このまま彼に戻られてしまったら、誰に話しかけていいのかわからない。この人にしか話しかけられないと、和也は、口を開いた。 「南先生! 」  幼い顔とは正反対の、しっかりと声変りした男性の声質。  昔聞いたことのある、なつかしい声。ずっと待っていたその声。南は名を呼ばれて、周囲を見渡した。  数年間聞くことのできなかった和也の声に、南の息が止まった。  和也の姿を見つけるまでに、そう時間はかからなかった。和也に手を振って、迎え入れてくれる。  和也はぺこりと頭を下げて、彼のもとに小走りで寄って行ってあかりの職員証を差し出した。 「よく来てくれたね。これを届けに来てくれたんだね。ありがとう。戸高先生もきっと喜ぶよ」 嬉しそうに微笑む南先生の目が、うっすらと涙ぐんでいるように見える。 「そうだ、戸高先生も呼ぼうね! 」 いや、それは! と言おうとしたが、南先生はもう職員室の中に居る彼女に声をかけていた。職員室の中から女の人の声がする。 「これ、届けてくれましたよ」 職員室に上半身だけ入ってあかりに職員証を手渡す南先生の背中は、数年前よりも少し小さくなったように和也の目に映った。 「ありがとうございます、どなたが届けてくださったんでしょうか? 」 彼女がそういうと、南先生は勝手口を少し広く開けた。そこに立っていたのは、いつも店に弁当を買いに来る、小さい女の人だった。 「あ、ありがとうございます……! 」 彼女は最初驚いたような顔をしていたけれど、すぐに嬉しそうに笑って職員室から出てきた。 「今度お礼、させてください! 」 和也を見上げるあかりの瞳は、キラキラと輝いていた。フルフルと首を横に振って立ち去ろうとする和也。立ち去ってしまう彼の腕を、あかりは咄嗟につかんでいた。 「お願い、行かないで……。あなたに話したいことがたくさんあるの。お礼をさせてもらった時に少し話もしたいから……、明日の午前中に時間をもらえませんか? 」 振りほどいたって良かったのに、少しだけ振り向いて見えた彼女の表情はあまりにも必死だったから。和也はあかりを振り切ることができなかった。背中を向けたままだと失礼だと思い、和也は振り返ってあかりと向かい合った。  じっと彼女を見る勇気はないから、やはり視線は泳いでしまう。でもこのまま何もしゃべらないと、明日彼女が店に来てしまう。そんな急な予定の変更は、和也には無理があるから。 「……水曜の17時以降なら、時間が作れます」 少し無理をして、水曜日に標準を合わせて提案した。  初めて聞く和也の声の低さに、あかりは少し驚いたけれど、それよりも嬉しさが勝った。 「水曜、17時以降にお店に行きます! よろしくお願いします! 私、戸高あかりです」 和也の腕を握っていたあかりの手が離れた。 「……恵実、和也です。時間、できるだけ守ってください」 目は泳いでいるものの、和也の表情そのものは無表情に近い。 「はい! 」 それでもあかりは嬉しくて、和也を見上げて頷いた。  駄菓子店に帰宅後、お店のカレンダーに和也は予定を書き込み始めた。 「何か予定が入ったの? 」 初音に問われて、和也はうなずいた。 「来週の水曜。先生がうちに来るんだって。約束してきた」 和也の表情は、やはりいつもと変わらないけれど。 「そう。良かったね」 和也が家族以外の外のつながりを持ったのは、数年ぶりだった。初音はにっこりと笑って、和也に声をかけた。  和也はいつもと変わらない様子で、時計を見て地下にある自分の部屋に戻った。部屋のカレンダーにも、予定を書き込む。 『戸高先生 17:00 お店』 自分で書いた予定を頭の中にある予定表の中に書き込んで、水曜日の日程を大まかに組み立てる。にっこりと笑ったあかりの笑顔が、ふと和也の脳裏に浮かんだ。どうしてあんなに嬉しそうだったのかよくわからないけれど、とりあえず自分のしたことは間違いではなかったのだ。  ほっと胸をなでおろしながらピアノの椅子に座って、和也はいつもの生活の流れに戻った。
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