3/1(月)

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3/1(月)

 記憶というのは、消えることが無いと僕は思っている。こういうとだいたい第一声は「じゃあ『忘れる』をどう説明するんだ」という反論が返ってくる。思うに、記憶は全て脳に記録されているのだろう。それは、例えれば膨大な広さを誇る図書館だ。よく見る本ならば、すぐに探し出すことが出来るだろう。しかし、新しく入ったばかりの本や、しばらく前にちょっと見たきり見ていない本ならば、探すのは困難なことに違いない。  そして。例えば本棚の一角に「こわいもの」を置いて一定の本棚に近寄らせないようにすれば。そうすればきっと、その本棚にある「記憶」は「思い出す」ことが困難になるだろう。  時刻はお昼を少し過ぎたところ。くあ、と思わずあくびが出る。先ほどから似たような景色の場所をぐるぐるしているんだ。仕方ないことだろう。  僕がいるのは、研究所に備えられている図書室。ここは資料を置くというよりは、娯楽としての読書を目的としている。小説や雑誌が多いのはそのためだろう。  この図書室は、僕が協力している研究の「被検体」が主に利用するための場所だ。研究のための検査やテストなどが無いとき、本好きの被検体はここにいることが多い。ついさっきも、学者だったという被検体が本を読みながらペンを走らせているのを見た。しかし、僕の目的は彼ではない。  図書室の、おそらく最奥部に当たる場所。そこに並ぶテーブルの端っこに、目的の人物はいた。愛用の眼鏡を本の脇に置き、自分の腕を枕に机に突っ伏している。僕はため息と共にその眼鏡をひょいと取り上げて白衣のポケットに押し込み、少しその場を離れる。そしてハードカバーの本を持ってくれば、爆睡している探し人の頭に角を振り下ろした。 「! ……?」 「おはよう、カイ君」  彼はばっと身体を起こし、こちらを寝ぼけた目で見つめ、そして首を傾げる。ため息と共に彼の名を呼んだ僕を、視力の悪い彼は声でようやく気付いたようだ。 「ファターか……なぁ、私の眼鏡を知らないか? ここで寝る前には確実にテーブルに置いたんだが」 「知らない」  軽く一蹴して、テーブルの上の本を見る。猫が人間観察をする小説のタイトルがそこにはあった。これならば、問題は無いか。 「それよりカイ君。僕に言うことない?」 「めがね……」  妙に舌足らずな声で、しかもよく分からないという顔で呟くカイ君。なんとなく分かる。彼は、本当に分かっていない。 「今日の午後一時。何か僕と約束してなかった?」 「約束……?」  彼は首を傾げる。ここまでヒントがあっても駄目なようだ。じゃあ正解は、と僕はため息を吐いた。 「一時から、恐怖症の克服訓練するって言ってたよね? どう、思い出した?」  その言葉を聞くと、今度はカイ君が大きくため息を吐く。そりゃそうだ。恐怖症の克服訓練とは、恐怖の対象を延々と見せ続けそれを何とか乗り越えようという脳筋訓練だからだ。 「思い出したくなかった……」  あー、と呻いて天井を仰ぐカイ君。彼の顔に、白衣のポケットから出した眼鏡をかけてやる。レンズの奥の目が、何か言いたそうに此方を見た。 「はい、それじゃあ行くよ。君の記憶を取り戻すためなんだから」  そう言われるとカイ君は渋々立ち上がる。彼が指定された部屋の方角に行ったのを見送ってから、僕は図書室を後にした。  被検体である彼らには「君たちは記憶を失っており、恐怖症が思い出すことを遮っているから、それを乗り越え記憶を取り戻す研究」と告げている。しかし、本質は逆。「一部の記憶を恐怖症によって封じ込める研究」が正しい研究の内容だ。今回カイ君が行う訓練は、嘘の研究にリアリティを持たせるためと、恐怖症の定着度合いを確かめるために不定期に行われている。  そして封じ込めた記憶というのが、殺人に関する記憶だ。被検体である彼らが殺人鬼としての記憶を思い出さないように見張り、検査を促し、テストを受けさせる。それが、この僕、ファターの仕事である。
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