3/4(木)

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3/4(木)

 人は怖い。相手が自分をどう思っているかは分からない。こちらに向けられている感情が好意であれ敵意であれ、自分の思っていない感情を向けられるのは本当に恐ろしい。  ただ、他人とすれ違う程度なら良い。他人と会話をするだけならばまだ良い。一番怖いのは、他人に触れられることだ。大抵の場合、相手に興味が無ければ触れる必要はない。逆を言えば、触れるということは何かしらの感情を持っているということだ。愛しいと思えば、抱きしめるために手を伸ばす。嫌いだと思えば、傷つけるために手を伸ばす。その伸びてくる手の意味を、私は分からない。だから、こちらに触れる前に逃げる。その手が届かないところまで、逃げる。逃げることは悪いことじゃない。そう、私は自分に言い聞かせている。  そわそわとしながらインターホンを鳴らす。この音で気付かれるかもしれないと思うと不安が過る。早く、早く。そう心の中で急かしていると、インターホンから「鍵開いてるよ」と呑気な声が聞こえた。 「お邪魔します」  念のためそう声をかけて、扉を開ける。鍵のつまみを回す。一度ドアノブを捻り、鍵がしっかりとかかっているのを確認してから奥へと向かった。 「ごめんね、メル」 「ん。別に暇だったし、だいじょーぶ」  へへ、とメルが笑う。両目の色が違う、所謂オッドアイの彼は片目を前髪で隠している。顔の半分が隠れていても分かるほど、彼は表情が豊かだ。 「でも、俺のとこがバレるのも時間の問題かもよ?」 「そこはメルが上手く言いくるめてよ」 「うげぇ」  ベッドに腰かけていたメルが、妙な悲鳴と共にぼふんとマットレスへ倒れ込む。乱れた前髪を整えるのは癖だろうか。私は前から気にしないと言っているのに。 「あ、フェン! お菓子取ってー、お菓子。その黄色い袋のやつー」 「はいはい。零しちゃ駄目だよ」  テーブルの上のお菓子箱から、指定されたスナック菓子を取る。それを取り、メルの横に置く。パッケージを開け、出たゴミを脇に置くメル。今度はそれを、私がゴミ箱に投げ入れた。 「ないっしゅー」 「ありがとう」  もぐもぐとスナック菓子を頬張りながらメルが軽く手を叩く。その手からスナックの欠片がベッドに落ちる。それを払おうと立ち上がると、インターホンが鳴った。 『フェーン! ここにいるのは分かってる! 立てこもってないで出てきなさーい!』  警察官のような台詞で怒鳴りながらインターホンを連打するのは、十中八九ファターだ。案外見つけるのが早かった。居留守を使いたい、と目で訴える私に、メルは行かなきゃ駄目だよとこれまた目で訴える。しばしの睨み合い。不毛な視線での会話は、鍵の開く音が遮った。 「わぁお。不法侵入」 「検査放置して勝手にここに逃げ込むフェンが悪い。ほら、フェン。行くよ」  キャッキャと茶化すメルも意に介さず、ファターは腕を組んで仁王立ち。私より50cmも小さい彼がそんなことをしていても威厳も何も無いのだが。 「ほーら、フェン。諦めて行ってきなよ。お菓子なら残しといてあげる」 「そう言ってメルはいつも全部食べるんだ。晩御飯食べれなくなるよ」 「イチャついてないで早く立って」  うー、と小さく呻く。渋々と立ち上がった私は、メルに手を振って彼の部屋を後にした。  フェンサイクリジン、という麻薬の成分がある。私の名前はそこから取っているらしい。その名前の意味や、どうしてその名前が私に付けられているのか。それは、未だに分からない。  人に触れたくない、と思うのは、もしかしたらこの名前が関係しているのかもしれないと思ったことがある。触れるだけで人を魅了し、狂わせる。そんなファンタジーのような話があるわけがないとは分かっている。分かっているのだが、その可能性を、どうしても私は捨てられない。
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