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3/8(月)
人間には三大欲求というものがある。食欲、睡眠欲、性欲だ。食欲は確かに大切だ。人間は、一週間ものを食べなければ死んでしまう。睡眠欲はもっと大切だ。三日も寝なければ、人は十分倒れる可能性があるという。
しかし、性欲だけは案外何とかなる。食欲や睡眠欲の限界を調べれば、命の危機に関わりそうな体験談がすぐに出てくる。しかし、性欲の限界は少し調べた程度では「ちょっとのガマンでカレとの夜がもっとアツく」なんて浮ついた記事しか出てこない。期間も他の二つより長く、一か月や二か月の我慢も、一夜を盛り上げるためには行われている行為だ。
故に。これはモテない男の僻みなどではなく、本当に。人間に性欲というのは、案外必要ないものなのだ。
「え~、そんなこと言ったって、カイ君意外とモテてたでしょ」
「何を根拠に」
ちゃっかり座布団に座って待機しているファターの前に皿を置く。今日の昼飯は唐揚げ。奴が来たのが調理を始める前で良かった。
「料理は出来るし、元公務員だっけ? 仕事もちゃんとしてるし。顔も……いや、問題は顔かなぁ」
私は応えない。顔の美醜はよく分からないが、万人が美しいと認める顔でもないし、万人が醜いと認める顔でもない。そもそも、過去の記憶がほとんど曖昧なのだ。モテていたかもしれないが、その記憶は全くと言っていいほど思い出せない。
自分の分の唐揚げを運び、座布団に腰を下ろす。白米は既に準備済み。いただきます、と手を合わせた私は、同じように手を合わせるファターの皿から唐揚げを一つ取りあげた。
「あー。何でそんな子供みたいなことするのさ」
「悪口の罰だ」
釈然としないファターをよそに唐揚げを齧る。醤油とみりんと砂糖だけで味付けした唐揚げは、何とも言えない独特の風味がある。今まで色々な唐揚げを食べてきたが、私はこの味が一番気に入っている。
「やだなぁ、冗談だよ。カイ君そんなに顔悪くはないよ? 少なくともメズラ先生とか、オクティオよりは良いと思う」
「片目が無いやつらと比べないでくれ」
あとそんな比べ方をすると二人が不憫に思えてくるから、やめてあげてほしい。
「あぁでも、カイ君は眼鏡かけてる方が絶対にいいね。眼鏡キャラは眼鏡を外した方がイケメンって言うけど、あれは迷信に違いない」
それに関しては私も自覚があるから、強くは言えない。眼鏡を外すと視力が落ちる分、ものを見るときに険しい顔つきになる。それがなんだか睨んでいるようで、見られた方は良い気分ではない。風呂場で自分を見る鏡の中の私を思い出し、曖昧な返事と共に白米を頬張った。
唐揚げの最後の一個が無くなる。ごちそうさま、と小さく呟き、食器をシンクへ。ここで飯を食べ慣れているファターは、何も言わずとも自分の食器を運んできてくれる。
「ごちそうさま! いやぁ、美味しかったよ。これで午後の業務も頑張れる」
「そりゃどうも」
研究に協力する身の私と違って、ファターはれっきとした研究員だ。しかも一種の研究をするタイプではなく、様々な研究を手伝う、まぁ雑用係みたいなものだという。そんな彼に「食器洗いくらい手伝え」とは言えず、じゃあねと私の部屋を後にする彼を見送ることしか出来なかった。
「……さて」
まずは水を出す。温かくはなってきたが、まだ冷水ではキツイ。水が湯に切り替わるのを待ちながら、洗う順番のリストを頭の中で組み立て始めた。
カイ、という名前は漢字で書けば「快」となる。これは訓読みでは「こころよい」と読む字だ。確かにこの漢字は「快感」「快活」「愉快」などの熟語に使われている。
しかし。何が快いかは人によって違う。逆を言えば、一般的には快いものだと思われていないものも、人によってはそう思えるのだ。一方で、本来そうは感じないものに快感を感じている自分に対する自己嫌悪のようなものが無いわけではない。特に私は、その自己嫌悪が強い傾向にあると言われている。だからだろうか。私は、自分の記憶の中で明瞭に残っている、それでいて大好きなホラー映画を、どうしても未だに観るのを避けてしまっている。
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